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添削屋「ミサキさん」の考察|35|『文章の書き方』を読んでみた⑤

|34|からつづく

※このエッセイでは、辰濃さんが紹介されている例を全部ご紹介することはしません。私自身が気になったところだけです。
ですので、ご興味のある方はぜひ本書を入手して全部読むことをおすすめします。

トルーマン・カポーティ『冷血』

カポーティというと、オードリー・ヘップバーンの主演で映画になった『ティファニーで朝食を』が有名ですが、他面、残虐な一家皆殺し事件を追ったノンフィクション『冷血』を著わしています。

この『冷血』を書くのに彼は、6年を費やして資料を集め、整理しました。犯人の足跡を追い、関係者の話を聞き、集めた資料はノートブック6000ページにおよんだそうです。

 人の話を聞くときに、こちらがメモを取るとなかなか本当のことが訊けません。カポーティは、人と話をしながら、そっくりそのまま暗記してしまうという練習を積んだそうです。そういう広い円があってはじめて、あの大作が生まれたのです。

カポーティの『冷血』は文庫でも読めますが、ふつうの厚さですね。ノート6000ページにも及んだもののおそらくほとんどを捨てて書き上げたと思われます。私が以前読んだときの印象ですが、冷酷な犯罪に対して、できるだけ直接のジャッジを避けながら客観的に書こうとしている印象がありました。

それにしても、そのまま暗記してしまうというのは超絶的な仕事です。
いまなら、気にならない小型レコーダーやスマホでもっと楽にできるところでしょう。
しかし、相手の本当の言葉を訊き出すということへの執念は、忘れてはいけないことだと思います。

福沢諭吉の「写本」

 オランダの新しい築城の本があるとする。それを借りて、猛烈な勢いで書き写す。コピー機で一気にやるようなわけにはいかない。二十日も三十日も、昼夜の別なく、あらんかぎりの力で書き写す。書き写すことで、スペルを覚え、文の構造を覚えることができる。諭吉の語学力が相当のものだったことは、その後の外遊のときに証明されました。

転写技術のない長い長い時代、人々はとにかく書き写すことで書を読むことができましたよね。
平安時代の「物語」文学、たとえば源氏物語などが今に残るのは多くの人々の手になる「写本」のおかげです。
とても効率が悪い一方で、それによって身体的に身につけるものも現代人にはおよびがつかないレベルだったのかもしれません。

 私も、完全な形ではありませんが、書き写しをやります。気に入った詩や歌や散文に出あうと、それをカードに書き写します。それがたまって、自家製歳時記ができあがりました。コピーをとってカードに張りつけることもありますが、できれば、自分で書き写したほうがいい。一字一字を書いたほうが、文章が身につきます。書き写しの時間はむだな時間ではなく、広い円を描く作業の一つ、と考えていいでしょう。

 私も『表現ノート』と題して、小説の気に入った表現の部分をノートに書きためています。見返すことはほんとんどないのですが、書き写すという動作にかかる時間が、さっと読みすすめる時間に比べて長いためか、目で読むだけでは気づかない文章の構造や工夫に自然に気づかされます。
 ですので、「書き写す」という行為自体が自分にとってはとても大事です。
 また、ふつうに勉強をしたり調べものをしたりする場合も、私は極力ノートに書き写すことにしています。書く過程で自然に頭を働かせるという作用が、自分にとってはとても大事だと思っています。

ところで、辰濃さんは次のようにも言っています。

 ちょっといいなと思ってその文章の書き写しをする。ところが、書いているうちに文章の欠点がめだって途中で止めることがあります。書き写しているうちに化けの皮がはがれる文章は、化粧でごまかしている証拠です。一字一句を写すことで、長所がいっそうわかってくる文章は味のある文章です。

わりと厳しいことが言われてますね。でも、私も実感としてよくわかります。
下手な文章は読んで気になることもありますが、書き写すとよりはっきりしてしまいます。
正直プロの作家の文章でも下手なものは下手ですよね。逆にいうと、自分の文章を向上させたいなら、やはりよい文章の書き写しは絶大な力を発揮すると思います(私見ですが)。

|36|につづく


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