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草の根広告社/父子手帖(ニコニコチャンネル復旧までの臨時更新)

一部ニュース等でも取り上げられております通り、
2015年より草の根広告社を月水金配信させて頂いておりますニコニコは
大規模なサイバー攻撃を受けており、
サービスを一時的に停止しております。
そのため、今週月水金に予定しておりました配信については、
ニコニコ側で復旧の目途が立つまでは
こちらでの公開とさせていただきたく、ご理解のほど、お願いいたします。

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「娘に文体が生まれていた」

 朝食の後、娘がノートを広げて一生懸命何かを書いていた。黙って見て見ぬふりをしていたが視線を感じていたのだろう。書き終えた娘が「ひとこと日記だよ」と教えてくれた。日付とその日に印象的だった出来事が五行くらいで綴られている。学校の宿題などではなく自主的につけ始めたものだそうだ。

「すばらしいね」と言うと、うれしそうにここ数日の日記を朗読してくれた。一番驚いたのはその文章だった。作文の宿題などで用いているしっかりとした文法の文章ではない。どちらかといえば話し言葉に近い。国語の授業で習った型通りの文章から逸脱して、自由にのびのびと印象的な出来事と自分自身の気持が書かれていた。リズムもあった。まごうことなき娘の文章だった。

 生後まもない頃から読み聞かせをしてきた絵本、自分で読み始めた児童文学、そして最近夢中になって読み進めている「ドラえもん」の漫画。様々なところで耳にしてきた誰かの言葉。そういう様々な言葉の集積と身体的な経験の蓄積が発酵して湧き出てきた源泉のような文章だった。55歳のぼくには到底真似することのできない瑞々しさがあった。

 娘に文体が生まれていた。

 文章を書くのを生業にすると、それまで当たり前に使っていた自分なりの文体というのを見失うことがある。肩に力が入り過ぎて自分なりのフォームで書くことができなくなってしまうのだ。一旦そのループに入ってしまうと自分なりの文体の獲得というのが如何に難しいかを思い知らされる。

 肩に力が入っていないからこそ書けた自分なりの文章。体験したことを書くことで記憶に留めようとする自然発生的な文章。言葉を綴ることの喜びに溢れた文章。何より、読み手のことをまるで意識していない自然体の文章。それを失うことの淋しさと取り戻すことの難しさを知っているからこそ、彼女にはせっかく手に入れた自分なりの文体を失って欲しくない。そう思った。



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