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老いて東京に住むとしたら、その理由は何ですか?(小原信治)

東京が僕の故郷だった

 母方の祖父母は東京に住んでいた。武蔵小山の路地裏にあった風呂無しの1Kアパート。家賃は幾らだったんだろう。星薬科大学の近くだった。戦中の長崎は高島(高島炭鉱の島だ)から戦後の東京を転々としながら五人の子どもを育てた祖父母がどうしてそのアパートに行き着いたのか、孫である僕は何も知らない。知っているのはそれぞれの家庭を持った五人の子どもが誰も同居しなかったという事実だけだ。

 初孫である僕が小学生の頃は祖父母もまだ元気だった。週末に泊まりに行っては祖父と銭湯に行き、帰りに武蔵小山商店街の入り口にある屋台の焼き鳥屋に立ち寄るのが楽しみだった。七十年代の話だ。近くには叔父が営むスナック(今回の放送で話しているピザを食べた店だ)もあったし、五反田のTOCには父が勤める会社もあった。そもそも僕自身が生まれたのも結婚したばかりの両親が暮らしていた目黒だった。だから武蔵小山とか五反田は僕にとって田舎と呼べる場所のひとつだった。神奈川県大和市で暮らしている自分にとっての田舎が東京というのも不思議な話なのだけれど、休みの日に泊まりにいく祖父母の家がある町という意味ではやはり田舎なのだ。当時はまだ下町風情のある町だったし、歴史も文化もなければ本来の意味での自然もないマンモス団地育ちの僕にとってはやはり東京の武蔵小山は田舎だったんだと思う。

 そう、東京は上京する場所という意識の国民が圧倒的に多い中で、僕にとって東京は二十代になるまで一度も暮らしたことのない生まれ故郷だったのだ。

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