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【PP】考察『進撃の巨人』に込められたメッセージとは

やー、先日ね、ようやくアニメのファイナルシーズン後編も完結しまして、すべてのストーリーを見届けることができた『進撃の巨人』なわけですけれども、いや面白かったわ、、、

最近、ことあるごとに、近年一番好きな作品は進撃、といろんな人に言ってきましたけれども、アニメ最終回までたどり着き、その思いを強くしたところですね。よくこの話描き切ってくださったよ、ほんとに、、、

で、最終話に至って、ようやくこう、作品の大テーマみたいなものが見えたかな、という気がしましたので、ちょっとnoteに感じたことを残しておこうかなと。途中までは、反戦がテーマかと思ってたんですが、もうちょっと深いところにテーマがあるような気がしました。

作品中の伏線とか、ストーリーの解説に関しては、数多の考察サイトがそれぞれ分析していると思うので今さら僕なんぞが言及することもないんじゃないかと思いますので、ここは、小説家らしくね、話の構造の根幹とか、作品に込められた作者のメッセージというものにちょっと思いをはせてみようかな、と思います。
あ、もしかすると、どこかほかで言及されている内容であったり、作者インタビューで明かされた内容と食い違いがある、みたいな部分もあるかもしれませんが、あくまで個人の解釈、ということで大目に見ていただければ。

ちなみに、僕は最初にアニメから入ってしまい、
アニメ完結してから漫画を一気読みしようと思っていたので、
実は漫画未読です。これから大人買いするよ!

ただ、こんなに長く待たされると思わんかったよ。
よく10年も我慢したよほんとに。

以下、激しくネタバレしますので、未読・未視聴の方はお気を付けくださいませ。




■テーマは「人間性」?

ここからは完全に僕の勝手な想像になるわけですけれども、『進撃の巨人』の通奏低音ともいうべき大テーマは、「人間性」、つまり人間とは何なのか、という問いであるような気がします。人間中心主義ヒューマニズムというやつですね。

作中、いろいろなキャラクターがそれぞれの視点で、それぞれの正義や思惑を持って行動するわけですが、それが時にぶつかってしまうために、悲劇が起こります。これは現実世界でも同じですね。人同士のミクロなものから世界を巻き込むマクロなものまで、対立というのは異なる正義のぶつかり合い、という言葉がそのまま当てはまるような構図です。どんなに悪人に思えるキャラクターでも、そのキャラクターの視点に立つと、行動の原点が見えてくる。だからこそ、単純に誰かを憎み、誰かを倒せ、という感情移入ができず、苦しんだ読者・視聴者の方も多いのではないかと思います。

冒頭から登場する「無垢の巨人」は人間性を奪われた存在を象徴するギミックであり、人間的なキャラクターたちとの対比を構成しています。他者の存在などないように振る舞い、ただ己の食欲に突き動かされて人を捕食し、殺していく巨人。序盤は、この非人間的な巨人に対し、人間性を持った人間がどう抗っていくのか、という話でした。

やがて、壁内人類は壁を超えて外に出て、自分たちの世界が狭苦しい島の一角であることに気が付きます。そこから、壁外の強大国マーレとの戦いに入っていくわけです。

マーレでは、壁内人類と同じ民族であるエルディア人が差別され、迫害を受けていました。もちろん、モデルはナチスドイツによるユダヤ人迫害でしょう。エルディア人の収容区、腕章などは、その暗黒の歴史を想起させます。
マーレ人を含む壁外人類は、資源や領土をめぐって争い合い、殺し合う、「人間性を失った人間たち」でした。ただ、マーレの中にも人間性を保っている人たちもいて、すべてが人間性を失った人ではなかったのです。なのに、どうして戦争や差別が起きてしまうのか。

最初は、エレン側に感情移入して壁外人類に対する憎悪を感じた方もいらっしゃるでしょうが、ライナーやガビを通して描かれるマーレ側の視点では、正義と悪が逆転し、なんとも言えない気分になったのではないでしょうか。この、視点の転換による善悪の逆転というのは、僕も大変好きな物語の作り方で、自分の作品の中で大事にしている考え方でもあります。

さて、マーレとの始祖の巨人争奪戦を経て、最終的に、始祖の巨人の力を手に入れ、「終尾の巨人」と化したエレンとアルミンやミカサたちが対決することになりますが、「終尾の巨人」は、「人間性を失った人間たちを断罪するべく、人間性を放棄したエレン(※)」という存在です。つまり、作品を通して、メイン視点のキャラクターたちは「人間性を失った存在」と戦い続けていることになります。非人間的存在に直面するキャラクターたちの苦しみ、嘆き、喜怒哀楽は人間性の象徴なわけです。

※最終的に、人間性を放棄していなかったことを知ることになりますが

では、この「人間性」とは具体的になんなのでしょう。僕の解釈では、諌山先生は人間性を構成するのは三つの柱だと考えておられるのではないかなと思いました。

■第一の柱は「愛」

最終話、「道」で巨人を作っているジークが、「生命が生き残ってきたのは増えるから」とアルミンに語る場面があるわけですけれども、それは三つの柱の中でも作者が特に大切なものと考えている「愛」を象徴する言葉なんじゃないかと思います。

生命の本来の目的は種の保存である、ということはよく聞く言説で、昨今のジェンダー論などの視点では否定的にとらえられることも多い考え方ではあるんですけど、おそらく、『進撃の巨人』作中においては、生命が増える、というのは、家庭を作って子供を産むべきだ、という保守思想ではなくて、生殖が「愛」の象徴なんだと思うんですよ。

生命が進化して、どうして人類だけがこれほど文明を発展させ、地球上を支配するようになったのか。他の生物との一番の違いは何か?
それは、生殖というものに「愛」が強くかかわる生物だからではないか、、、?という。

生物は進化して、分裂や卵産みっぱなしという状態から、雌雄の区別、生殖や育児という概念を獲得するようになります。個体同士の結びつきが子をはぐくみ、親は弱い子を育て、家族や群れを形成し、集団で一個の命を生かそうとするようになります。人間ともなると、個々の結びつきは愛という概念を生み、集団が集まって社会を形成して外敵から身を守り、病気の研究や事故への対策などを取って生存率を高め、多くの命を繋いできました。
最終話、崖際に追い詰められた群衆が、崖下に落ちて行った母から託された赤子を守り抜くシーンなんていうのは、すごく象徴的だな、と思いましたね。絶望的な状況下で、それでもわずかな可能性を求めて人々が発揮した「愛」が、一人の子供の命を救うことになったわけです。

それこそが「人間性」であり、命を生かそうとする利他的な行動をもたらす愛こそが人間性の最たるもの、というメッセージなのではないでしょうか。

物語の最後まで生き残ったメインキャラたちというのは、必ず他者と強い愛を結んでいる人たちなんですよね。アルミンは全人類に対して。リヴァイは誰よりも部下を愛していた人で、ジャンは友情を大事にする人でした。マーレの人々も、故郷の人たち、一族、家族への愛が強く、コニーは母親をずっと愛していましたね。

もちろん、この「愛」の一番の体現者はミカサです。

死んでいったキャラたちは、人に対する愛よりも、もっと強いものに惹かれてしまった人たちなのかな、と思うんですよね。ハンジは自由に対する思いが強かったし、エルヴィンは「知りたい」という欲求にとらわれすぎた。ジークは愛そのものから目を背けた。欲望だったり、権力だったり、あるいはであったり、人に対する愛以外のものに強く惹かれたキャラクターは、非業の死を遂げている気がします。もちろん、死んでいったキャラたちの人間性が薄い、ということではなく。

だからこそ、生き残った最後の人たちの人間性を奪い、無垢の巨人にしてしまうという展開は絶望感が強いものでしたね。元に戻れてよかったけど。

始祖ユミルに力を与えた原初の生命体である光るムカデは、人間の脊髄のイメージを重ねているわけですが、光るムカデはとにかく「繁殖すること」だけを第一義にした生命ですから、脳でものを考え、愛をはぐくむ人間と、原始的な反射だけで生きようとする生命との間にも、人間性の有無という対比が用いられておりますね。ムカデの力で増えていく巨人たちは、脊髄液(に含まれる因子のようなもの?)を介して増殖していくので、食欲以外の高度な感情を必要とせず、生殖器も必要としません。そこに、愛は存在しえないわけですね。

また、『進撃の巨人』における「人間性」は肯定的な側面だけではなくて、負の側面も表現されています。「愛」にも負の側面があって、それは個を縛る呪縛にもなりえる、ということ。その最たる例が始祖ユミルのフリッツ王に向けたねじ曲がった愛、執着ですね。でも、その愛の二面性も、人間が人間である理由、人間性の一端なのかもしれません。

最終的に、物語の真の主人公であったミカサは「愛とはなにか?」を問われるわけですね。エレンを盲目的に肯定することなのか、それとも、道を外そうとしている愛する人を止めることなのか。その答えは、始祖ユミルが知りたいと強く願った問いであって、これが物語のすべての軸であったと最終話で知ることになります。

■第二の柱は「自由」

さて、作中キャラクターの動機は様々ですけれども、前述の「愛」と同じく、「自由」を行動原理とするキャラクターもたくさん登場します。

ハンジや、収容区に押し込まれたエルディア人たちも自由を渇望していましたが、もちろん、自由を一番強く望んでいたのは主人公・エレンです。アルミンから壁外世界の存在を知らされたエレンは、誰よりも自由を求めました。巨人に脅かされない世界。壁の中に閉じ込められずにすむ世界。子供同士の小さな暴力にさえ支配されるのを嫌います。
この世界に生まれ落ち、グリシャに「お前は自由だ」と言われたときから、エレンは「自由」の体現者となったわけです。

誰にも縛られず、始祖の力さえ及ばない「進撃の巨人」がエレンに継承されるという設定も、この「自由」というテーマから来たものなのでしょう。エレンにとっての自由とは、自分の進む道を誰にも塞がれない、邪魔されずに真っすぐ進んでいくことでした。でも、なかなかエレンの思う自由には手が届かなかった。ようやく壁を出た先は海に隔てられていて、その向こうには争いが待っている。どこまでも遠くへ、世界の果てまで見に行きたい、という自由の前には、数々の障害が待ち受けていたわけです。

この、自由を掴み取るために、現実世界でも多くの人が血を流してきたわけですよね。支配からの脱却、圧制への反乱、革命、反抗。多くの人が血が流すことでようやく、人はある程度の自由を掴み取ることができます。作中繰り返される「戦え」というメッセージは、自分の力で自由を掴み取る、という強い意志を象徴してるんだろうと思いますね。

もちろん、この「自由」にも負の側面があって、最終話で、エレンは地ならしによって真っ平になった世界を「見てみたかった」とこぼします。「自由」は行き過ぎれば、自分以外のすべてを否定することになります。山があり、川がある。自分の周りには他者がいる。そういうのをすべて障害と捉えてしまうと、地ならしをして、すべてを平坦にするしかなくなる。でも、究極の自由とは、自分一人だけが残された孤独な世界でもあります。すべてを踏みつぶして平らにしていく壁の巨人たちは、行き過ぎてしまったエレンの自由への渇望を象徴しているのでしょう。

■第三の柱は「平和」

三つめの柱は、「平和」。
それを体現していたキャラクターは、アルミンだと思います。

アルミンを動かしていたものは、途中までは知識欲とか好奇心なんですよね。これはこれで人間が人間であるために必要なものなんですが、現実世界ではそれが行き過ぎた結果、人間は核兵器などの大量破壊兵器を生み出すようになりました
アルミンがベルトルトの超大型巨人の力を受け継ぎ、生きた大量破壊兵器と化すのは、その知識欲と好奇心の負の側面を象徴しているのかなと思いました。

で、アルミンと同じく、この知識欲で動いていた人間はもう一人いる。それが、エルヴィンですね。有能な人物ではありましたが、ウォールマリア奪還作戦直前、その行動原理がただの好奇心であるということを知ったリヴァイはドン引きするわけです。
ウォールマリア奪還作戦で、エルヴィンとアルミンはそれぞれ瀕死の状態になり、巨人化させてベルトルトを食わすことで救うのはどちらか、リヴァイは選択を迫られます。そして、どちらを生かすことが人類を救うことになるか、と苦悩し、結果的にアルミンを選択します。

仲間を救うために、身を挺してベルトルトに立ち向かったアルミンですが、超大型の過熱水蒸気攻撃を受けて、全身大やけどを負いながらも囮の役割を完遂します。死ぬほどの苦痛にどうして耐えきれたのかと言えば、エレンが外に出て、きっと海にたどり着く、つまり、巨人に殺されない、平和な世界をエレンたちが実現してくれるのだ、という希望を持ったからでした。誰も死んでほしくない。平和な世界になってほしい。そのために、自分の命を捨てたわけですね。

自分の好奇心のために人を死に追いやり、自らもそれに殉じたエルヴィン。
平和のため、他者のために犠牲になろうとしたアルミン。

リヴァイの選択は、人類を救う才能の持ち主はどちらなのか、という語り口になっていましたが、物語的なこの選択の役割は、人間性というものを考える章でもあったわけですね。

生き残ったアルミンは、その後、終尾の巨人を倒し、世界を救うことになるわけですが、アルミンが親友であるエレンと対決することを決意したのは、全人類を救う、という選択をしたからです。エレン個人に対する愛を捨て、博愛を選択した。もう人が死ななくていい世界、争わなくてもいい世界を願う、平和への渇望こそが成長したアルミンの本質であり、作者が考える人間性の柱の一つだったのではないでしょうか。

そして、「平和」にも負の側面が描かれていましたね。
一つは、超大型巨人の力を手に入れたアルミンというキャラクターの意味。

前述のとおり、超大型の能力(?)である「爆発」は、核兵器などの大量殺戮兵器のオマージュだと思います。
現実世界では、核兵器を生み出す元となる理論を作り上げたのはアルベルト・アインシュタインですが、アインシュタイン自身は反戦論者であり、核の技術は平和的に利用するべきだ、と考えている人でした。
また、アルフレッド・ノーベルは、採掘や掘削の効率を上げるためにダイナマイトを発明します。もちろん、当時としてはすさまじい威力を誇ったダイナマイトが兵器に使われる可能性は想定していましたが、それが戦争の抑止力として働くと思っていました。が、その思惑は外れ、戦争でダイナマイトは多くの命を奪います。その後悔から、ノーベルは、自らの莫大な遺産を世界の平和や化学発展に寄与した人に与えると遺言し、ノーベル賞が創設されます。

人々を豊かに、平和にするために、あるいは知識を追求して科学技術を発展させると、その技術を応用した大量破壊兵器が生み出されるという皮肉。そして、現実世界では、その大量破壊兵器を超大国が保有することで薄氷の平和が保たれている。そういった矛盾や負の側面が、アルミンというキャラクターに集約されているのではないかと思いますね。

もう一つは、ミカサが、エレンと逃げた後の世界を想像するシーン。
その世界線では、パラディ島は壁外世界からの攻撃を受ける寸前で、多くの人が死ぬ戦争が避けられない状況になっていました。でも、エレンは戦いを放棄し、ミカサとの束の間の平和、平穏な暮らしを選びます。

もちろん、実際にそういう選択肢もあったし、エレンの中ではその選択をする可能性もあったはずですが、この小さな平和は「無関心」を象徴していたと思います。世界で起こっている争いごとから目を背け、自分たちの狭い世界に閉じこもり、小さな平和を望むこと。我々弱い人間はその選択をしがちですが、その無関心こそが、世界の平和を阻むものなのだ。人は、立ち上がって進撃し、平和のために戦い、平和を勝ち取らなければならない。少し強い言葉ですが、そういうメッセージが込められているのでは、と解釈しました。

■人間性を保つための三つの壁

ここまでは、「愛」「自由」「平和」という三つの柱が、人間性を支えるもの、と表現してきましたが、もう少しいい表現があると思います。

「壁」です。

序盤、主人公たちはおなじみの三つの壁に囲まれた世界にいます。
ウォール・マリア、ウォール・ローゼ、ウォール・シーナの三つ。
これは、もしかするとそれぞれ、前述の「愛」「自由」「平和」を象徴しているのではないか、と思いました。

人間性は、「愛」「自由」「平和」の三つの壁の内側にいる間は守られています。「平和」が失われたとき、人間性を保つためには、「自由」のために戦わなければなりません。
自由を奪われても、「愛」を持っていれば最後の人間性は保たれます。
でも、「愛」を失ってしまったら、どうなるでしょう。
なので、犠牲を出してでも、戦って「壁」を奪還しなければなりません。

作品後半で、マリア・ローゼ・シーナが始祖ユミルの子の名であり、ユミルの民の祖にあたることが明かされるわけですが、これはギリシア神話におけるパンドラの箱の逸話のように、フリッツ王に人間性を奪われたユミルが、生命としてつないだ希望、人間性そのものだったのかもしれません。

始祖ユミルは、エルディアによる侵攻で「平和」を失い、奴隷となって「自由」を奪われます。その後も、人間性の欠片もないフリッツ王に言われるがまま殺戮に力を貸し続けたわけですが、生命としての本分である「生殖」を達成できたのは、ねじ曲がったものではあれ、「愛」を失ってはいなかったからではないかと思います。きっと、「愛」を失っていたら、ユミルはフリッツ王を殺し(あるいは見殺しにし)、人類を巨人の力で排除する「地ならし」を敢行していたのではないでしょうか。二千年前は、ユミルの愛が全人類滅亡という最悪のシナリオを食い止めたわけですね。
ただ、それが正しかったのか、人類はすべて滅ぼしてしまうべきなのか。始祖ユミルは無限の時間を過ごしながら、自身に問い続けていたのではないでしょうか。
罪人である人間を滅亡させ、一部の善人だけが生き残る、という話は、旧約聖書のノアの箱舟をはじめ、世界各地に残る伝承のモチーフで、作中の「地ならし」は、そういうイメージを持たせているのでしょうね。

そして、その「愛」とはなんなのか、という問いは、二千年後のミカサに降りかかることになり、これが実は作品のメインストーリーであったわけです。ミカサもまた、エレンへの度をこした「愛」に縛られて生きていました。エレンのためには自分の命も顧みず、命令を無視し、全人類を敵に回すのも厭わないほどであったわけです。エレンのマフラーは、やわらかな束縛を象徴していたのかもしれないですね。

そして、その愛する者が人々を虐殺する存在である、という点で、ミカサは始祖ユミルと同じ立場にいました。唯一、始祖ユミルと違っていたのは、ミカサは「自由」の壁を破られていなかったこと。「平和」「自由」の壁を壊され、「愛」だけでなんとか人間性を保っていたユミルは、自由意志を持った人間がこの愛の呪縛を解き、自分と違う行動をとることができるのか、あるいは愛に縛られた自分と同じ行動をとるのかということに興味を示し、ミカサの選択に人類の存亡を負わせるわけですね。

最終的に、「アッカーマンの血族はエルディア王家に隷属する」という設定は嘘であることが判明しますし、ミカサがエレンを殺して人類を救う、という選択を取ることができたのは、始祖ユミルよりも「自由」という人間性の柱を残していたからではないでしょうか。

そして、その後の弔い方は、愛に満ちたものでした。愛する人を殺す、という選択をした後でも、ミカサは人間性を失うことがなかった。だから、生き延びて(おそらく)次の世代をはぐくみ、生命としての生涯を全うすることができた、というエンディングにたどり着いたのではないかと思いますね。


ということでございまして、特に何か体系だって考察を加えたわけでもなく、単に一視聴者としてつらつらと感想を述べてまいりましたけれども、こういう解釈は人の数ほどあるでしょうし、みなさんはどんな感想を持ったでしょうね。

いずれにしても、本作の裏になにか大きなテーマ、メッセージがあるということは確かなことだと思いますので、作者からのメッセージに触れようと解釈してみたりなんかすると、この作品をさらに楽しめるのではないかなと思いました。

しゃー、マンガも読むぞー。





小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp