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『小説ブルーピリオド あの日の僕ら』のウラバナシ(2)

さてさてさて、僕がノベライズを担当させていただいた『ブルーピリオド』ですけれども、実写映画が公開されましたね。

もうお盆休み中に劇場にてご覧になった方もおられるでしょうか。

僕はお仕事で一度、板垣李光人さんと実際にお会いしたことがありまして、その時のイメージも相まって、まんまヨタくんじゃん!と思ってしまいました。ご本人も繊細な感じがしてね。世田介みたいに口悪くないですけどね。

で、今回は、映画上映記念ということで、スピンオフ小説『小説ブルーピリオド あの日の僕ら』について、語れる範囲で、小説の各話制作の裏側をウラバナシとして語っていこうかなと思います。

ちなみに、制作に至る過程はこちら




↓↓↓ 以下、多少ネタバレあります!! ↓↓↓





■「矢口八虎の赤」のウラバナシ

一筆目は原作主人公・矢口八虎の藝大二次試験一日目の朝の場面を舞台に、八虎が家を出た後の八虎の両親にスポットを当てたお話。

原作中で「八虎の父は昔事業に失敗した」という情報は開示されているのですが、その経緯は語られていなかったのですよね。そこで、その顛末を中心に、幼少期の八虎がどんな生活をしていたのか、みたいなことを書かせていただいたのがこのお話です。

今回、小説で初めて明かされたのは、八虎の父の名前「矢口行信(ゆきのぶ)」ですね。原作・山口先生(以下、先生)との打ち合わせの際、八虎の両親の名前をおうかがいしたときには、あらかじめその名前がついていたのですけれども、勘のいい人はすぐにお分かりですね。そう、「成薫をじる」ということで「行信」になっているわけです!僕を信じてノベライズ任せますよ!みたいな!

まあ、そういう意味ではありません、と、いう説明はありましたけども。

先生曰く、諸事情あって八虎の父の名前をはっきりする必要があって、あらかじめ設定を作っていたものが、たまたま「成薫をじる」みたいになっちゃったんですよねー、ということで、たぶん、その事情というのは、今思えば実写映画化のお話だったのでしょうね。映画では、(ずんの)やすさんが演じていて、きっちり役名も付いていましたね。

小説版では、八虎の父は小さな楽器メーカーを起業して事業を成功させ、その後、失敗してしまうわけですが、その設定の原点は、原作中の矢口家のリビングにアコギが一本置いてあったことです。
なにか音楽系の仕事をしていたのでしょうか、と山口先生にお伺いしたところ、「音楽系」かつ「職人系」という設定があって、そこのディティールを僕が作らせていただくことになりました。

作中現在の八虎のお父さんは、会社勤めで、ダメ社員みたいな扱いを受けていると自嘲するわけですが、芸術系に進みたいという息子を全力で応援しようとするわけです。これは、若い頃にクリエイティブなことをやってきた人特有の感覚かな、と思いますね。人と違う人生を生きたい、と思う気持ちは、僕も小さなころからずっとあって、若かりし頃には音楽活動なんかいたしましたけれども、そういうところですごくシンパシーを感じたキャラクターでした。

ちなみに、母「真理恵」の名前は、実は一回だけ、原作中に名前が出てきていました。皆さん気づいたでしょうか。先生との打ち合わせまでに、僕も担当編集もかなり原作漫画を読み込んだはずなんですが、この「真理恵」という名前の登場箇所に気づかなくて、先生から教えていただいたときに、二人して、「あー!あそこかーい!」となりましたけれども。

タイトルの「」については、主人公つったら赤だろ、という、戦隊シリーズイズムみたいなものが出発点です。本来、八虎のイメージカラーは「青」だと思いましたし、先生も「青」とお答えになっていて、他の主要キャラのイメージカラーなんかもお伺いしたのですが、イメージカラーとお話の内容とタイトルの色すべてをリンクさせるのは難しくて断念。小説版では、八虎の色は「赤」になりました。

「赤」は、もちろんred、赤い色を表すのですけれども、同時に、むき出しになる、さらけ出す、何も持たない、みたいな意味があります。たぶん、ちょっとグロい話ですけど、人間などの生き物の皮を引ん剝くと赤い筋肉が出てくるわけで、そこから、なにかを覆わずにさらけ出す、ということが「赤」という色に紐づいたんじゃないかと思ったりするのですが、実際、「赤貧」「赤裸」「赤裸々」みたいな言葉がありますね。なので、事業に失敗し、裸一貫から出直した八虎の父のイメージとして、赤という色は合致したかなと思います。

また、「赤心」なんていう言葉もありまして、それは偽らない真心、みたいな意味があります。八虎の両親が八虎に注ぐ想いというのは、親としてとてもまっすぐな愛情で、そういう意味でも、「赤」という色がふさわしいかな、と思ってつけたタイトルですね。

■「鮎川龍二の白」のウラバナシ

二筆目は「ユカちゃん」こと鮎川龍二のお話でした。原作ファンの方には、この場面が一番好きだという方もいらっしゃるのではないでしょうか。藝大二次試験前日、ユカちゃんが八虎とともに電車に飛び乗って向かう小田原逃避行の場面ですね。

原作では、八虎の視点で描かれたシーンでしたが、あの夜、ユカちゃん側は何を考えていたのか、ということで、この章は一人称視点にしていまして、深夜、眠れずに起きたユカちゃんが、民宿のご主人に自分の過去を語る、という構成になっております。
原作だと、八虎が起きるともうすでにユカちゃんが海岸にいて、なぜかご主人がフレンドリーな関係になっているのですが、きっとあの夜、八虎が寝ている間に何かコミュニケーションがあったのかな、という空白を使って作らせていただいたお話ですね。

作中過去パートでは、「ユカ」という名前が誕生した経緯と、小田原の場面でも語られた、ユカちゃんが唯一好きになったという中学時代の同級生の女子「遠野(とおの)」の回想になっているのですが、このキャラクターが小説オリジナルだと思われた方も多いのではないかと思います。
が、遠野というキャラクターは先生が実際漫画で描かれておりまして、ユカちゃんと遠野のストーリーは、ブルーピリオドのビジュアルブックに掲載された読み切り短編「鮎川龍二前日譚 王子様が死んだ日」というお話がベースになっております。


この、遠野というキャラクターが素晴らしく魅力的でして、読み切りで出てきた場面だけをノベライズして終わらせるのが惜しくて、もうちょい書かせてほしいとお願いしまして、卒業式の日の場面を追加で書かせていただいておりますね。

タイトルの「白」は、何も色を付けないまっさらな気持ち、本心、みたいなイメージと同時に、溺死した人間の肌の色、という、ちょっとまたグロい話になりますけど、そういうイメージがあります。
小田原のエピソードでは、ユカちゃんはたびたび、溺れて海の底に沈んでいく自分、というイメージを語るのですが、あの夜、裸の自分を描いたユカちゃんは、自分の肌の色がどう見えていたのかな、みたいな想像からのイメージですね。

また、藝大受験を断念して、自分の人生をリセットしたユカちゃんは、そこからどうにでも人生を描ける真っ白なカンバスになった、みたいなニュアンスもあります。そして、七色、レインボーカラーは、LGBT、性的マイノリティのシンボルとなっているレインボーフラッグのイメージがあるのですが、この七色は、すべて白色の光線をプリズムで分解して生まれる色なわけです。すべての色は、白から分化するわけですね。

なので、原点、再生、という意味で、この章は「白」がふさわしいだろう、と考えて、このタイトルにいたしました。

■「大葉真由の藍」のウラバナシ

三筆目の主人公は、八虎たちを指導した予備校の大葉先生。八虎のポテンシャルを引き出し、藝大合格に導いた数々の言葉の根っこ、あの快活を絵に描いたような性格の奥に、どんな過去があったのか?という興味から生まれたお話です。

まず、小説初出し情報としては、大葉先生の長男「洋基(ひろき)」という名前ですね。原作では、大葉先生の家は三人兄弟で、「豊(ゆたか)」「伊織(いおり)」という幼い兄弟は登場していたのですが、長男は初登場ということになりました。
で、この長男の名前は、今回の小説版の企画をきっかけに具体的に設定していただいたものなのですが、先生はサブキャラの名前を付けるときに身近な人の名前を持ってくることがあるそうで、この「洋基」というキャラについては、僕も知っている人の名前を持ってきています。なんか、それが書いていてどうも気恥ずかしくてやりにくかったので、作中では、最初だけ名前を出して、後は「ヒロ」とニックネームで呼ばせるようにしておりますね。

作中、息子の「ヒロ」は、大葉先生を「お母さん」と呼ぶのではなく、「真由」と名前で呼ぶわけですが、これは小説上の表現としての意図があります。
原作では、大葉先生は下の名前で呼ばれる機会が皆無なのですが、小説では、三人称として「真由は」と書き出さなければいけないわけです。三人称一元視点で「大葉は」とか「大葉先生は」とか言えないわけですね。
でも、原作を知る読者さんは、この「真由」という言い方に違和感が出るんじゃないかということで、物語の早い段階で慣れていただくために、長男が「真由」と呼ぶ、という設定にしたものです。意図がうまいこと効果を生んでいるといいんですけどね。編集さんとも、この呼び方については、大葉先生が子供に自分を呼び捨てにさせるだろうか、みたいな意見を交わしたのですが、結果、僕の意向を通させていただきました。

また、作中で大葉先生は多摩美出身という設定なのですが、これは先生からいただいたオフィシャルの設定で、「(大葉先生は)藝大出身者ではない」的なこともおっしゃっていました。そこで、大葉先生の過去として、多摩美時代のできごとを描くことにしました。

過去回想では、大葉先生の多摩美時代の友人「道尾徹(みちおとおる)」というオリジナルキャラクターが登場しますが、こちらは僕の創作で、原作には登場しません。二次創作界隈で、原作のキャラと自分のオリキャラが共演する作品を夢小説、というらしいですが、まさにそれですね。

原作作中でも、実在のアーティストをモデルにしたキャラクターがちょくちょく登場しますが、この道尾というキャラクターにも、モデルがいます。

一人目は、篠原道生氏。1992年に32歳の若さで亡くなった画家です。とても純粋な方であったようで、自分の芸術世界と俗世間との乖離に耐えられなくなってしまったのか、自ら命を絶ちます。
もう一人は、石田徹也氏。作中の道尾徹は自分の生首を描くのですが、その作風などは石田氏の作品を参考にさせていただいています。
前述の篠原氏と同様、石田氏もまた、31歳という若さで事故で命を落としています。いずれも、夭折の画家、という点で、モデルにさせていただいております。「道尾徹」という名前も、お二人の名前を組み合わせて命名しています。

タイトルの「藍」ですが、作中にも書きましたけれども、「青は藍より出でて藍より青し」という言葉が出発点になりました。中国の思想家・荀子の言葉ですね。教えを受けた人が、教えた人よりも優れた人になっていく、という意味で、それが、指導者、教師、講師といった人に通ずるものがあるな、と思ったわけです。

大葉先生も、芸大に入った頃は、きっとオンリーワンの人間になろうと思っていたんじゃないかと思います。でも、そこから講師になるという道を選んで、生徒の才能を引き出し、絵描きとして成長させていく存在になるわけですね。そこから、もしかしたら将来的に有名なアーティストになる生徒も出てくるかもしれないわけですが、アーティストとしての大葉先生は、それをどう受け止めたのだろう、ということをすごく考えたのですよね。あれだけの知識を持った人が、どうしてアーティストではなく、講師の道を選んだのだろう? みたいな。そこに嫉妬はないのか、疑問はないのか、とも思いましたし。

原作中の言葉からすると、大葉先生はきっと、生徒たちが自分を越えて育っていくことを望んでいるんだろう、と思いまして、青を生む「藍」が、大葉先生を端的に表す色かな、と思いました。同時に、それって「愛」だな、と思いますし、お話は大葉先生が自己を見つめる内容になっていますので、「I(わたし)」みたいな意味も込められております。
余談ですけど、原作中で大葉先生って自分のことを一人称で呼ぶことがないので、小説だとこれがえらいこと難しかったですね。大葉先生が自分を指すとき、「私」なのか、「わたし」なのか、「あたし」「俺」「僕」なのかわからないんですよ。でも、そういう自己を表す一人称がないことも、大葉先生というキャラクターの特徴なのかもしれないですね。なので、小説中でも大葉先生が自称するときの一人称は使いませんでした。そういう意味で、「I」というのもキーワードの一つになりましたね。

また、藍は絵の具のような「顔料」ではなく、「染料」であり、カンバスに塗り付けると、絵の具のように表面に定着はせず、カンバス地にしみこんでいってしまいます。それもまた、大葉先生の言葉が八虎たちを表面的に塗りつぶしていったのではなく(例えば、私の言うとおりにすれば合格するから従え、みたいなことではなく)、心や内面という内側にしみていったようなイメージにつながったので、この章は「藍」というタイトルにいたしました。

■「高橋世田介の青」のウラバナシ

三筆目、世田介のお話は、原作中の渋谷オールの場面を、世田介の視点から見たお話。鮎川龍二編と同じく、一人称視点の物語にしました。

これが一番難しかった……

天才の頭の中を凡人が想像するというのは難しくて、ここは先生とすり合わせをしながら、世田介の思考回路を想像する、ということをやりました。こういうことが起きたら、世田介ならこう言いますよね、こう思いますよね、みたいなことを確かめていって、少しずつ、あの日の世田介の気持ちに近づこうとしていった感じで。

なので、最初に作ったプロットでは、先生から、世田介がそういう行動に出るのは違う、という指摘もいただきましたし、僕自身、藝大の課題で兎の絵を描いたときの世田介の気持ちを100%解釈しきれなかったこともあって、なんとか、世田介の中の世界にフィットしようと必死になった作品です。多分正解なんかないのだと思いますが、正解を求めてすごい悩んで、なかなか手を付けられなかったので、この話は収録作の中で一番最後に書き上がった作品ですね。

モデルになった人のお話ですとか、世田介の中学時代の話など、世田介の内的世界を理解すべく、先生の頭の中の世田介のキャラ造形に関する話なども少しうかがうことができましたが、それも多くは小説として書けないな、と思いました。書いてしまうと野暮になるし、なんかそれは僕が書くべきことじゃなくて、もし読者の方に明かされるのであれば、いずれ本編で、先生が描かれるべきことだな、とも思いましたので(15巻でその片鱗が見えた気もしますが)、この章は、世田介を原作以上に深堀りする、ということはしていません。

お話の最後、原作にはないシーンで、世田介が八虎に対してある行動をとるのですが、先生にも「かわいい」と言っていただけたので、渋谷オールの日の落としどころとしてはそれでよかったのかな、と思ってはいます。

「青」のタイトルは、本作序盤の象徴的な色でもあり、「青い渋谷」という作品のアイコニックなイメージを前提としたものですが、同時に、世田介の未熟さを表す、「青二才」「嘴が青い」といった意味の青も一緒に込めています。
でも、最終的には、「冬の青空」につながって、なにか視界が晴れるような、前向きなイメージもあるといいな、と思いまして、世田介の章の色は「青」といたしました。

■「橋田悠の黒」のウラバナシ

最後、五筆目は橋田悠のお話ですが、これは全話中一番書きたかったお話ですね。なぜなら、僕が原作中で一番好きなキャラクターが橋田だったから。
最初にノベライズのお話をもらった時も、橋田の話を書きたい、というのはお伝えしていて、あの飄々としてミステリアスなキャラクターが生まれていくビギニングストーリーがあるといいなと思って書いたお話です。

橋田の話としては、コミックス11巻、佐伯教室での小枝ちゃんのエピソードに感情をボコボコにされたファンの人も多かろうと思いますが、そのストーリーを読んだ時に、彼もまた、過去になにか抱えてるんじゃないかな、という想いを強く持ちまして、そこに至る橋田の過去の出来事を書きたい、と強く思ったわけです。

大葉先生が「典型的な知識先行型」と評したように、橋田は美術ヲタクといいますか、その旺盛な美術への興味から絵を描くという行動に至ったタイプなわけですが、それ故に、絵を見るときも、感情より周辺情報や技術論から入ってしまう、という欠点があるように思います。作中では、そういうことも自分で理解して、達観したようなポジションにいますけれども、それはきっと、小中時代にそういうことで何か失敗しているんじゃないか、と思いました。
そこで、知識に振り回されて失敗するお話はどうか、と先生に提案したところ、「思い切り失敗させてやってほしい」というような回答を頂きましたので、このお話でも、全力でこっぴどい失敗をしていただきましたね。

ただ、プロット作成段階では、他作品よりも明確に「橋田はそういう行動はとらない」といった指摘があったキャラクターで(その指摘部分は僕の伝え方がよくなかったのですが)もあり、先生も思い入れのあるキャラクターなのかな、と思いましたね。

小説版での初出し情報は、橋田三姉妹の名前。長女「望(のぞむ)」、次女「萌(もえり)」、長男の悠を挟んで、三女「香(かおる)」。この設定聞いちゃったので、もう王様の耳はロバといわんばかりに皆さんに伝えたくて橋田三姉妹は出さざるを得なくなり、冒頭のシーンが決まりましたとさ。

先生のイメージでは、全員が一字の名前、というのがあって、三女・香だけは、「かおる」か「かおり」かはっきり決めておられなかったようですけれども、僕の名前と被るので、読みは「かおり」の方がよいでしょうか、とうかがったところ、「じゃあ、かおるで!」と決定していただいたので、「かおる」が正式な読みになりました。

橋田の章はオリジナルキャラも多く、嵐を呼ぶ転校生「我妻紅(あがつまべに)」、友人である「藤(ふじ)」「詩音(しおん)」、教師の「烏羽(からすば)」「黛(まゆずみ)」という計5名が登場します。

各キャラクターには特にモデルは設けませんでしたが、「我妻紅」の名前は「妻紅(つまぐれ)」から取っております。「妻紅」はホウセンカのことで、その色素がマニキュアとして使われたことから、「爪紅(つまべに)」とも言います。その、ホウセンカの花言葉は、「私に触れないで」「短気」といったもの。ホウセンカの実が熟すと、ちょっと触れただけではじけてしまうことに由来します。それが我妻紅のキャラクターと合致したので、その名前といたしました。
「黒」の章で「赤」のモチーフを選んだのは、対比関係にする目的ですね。

友人「藤」と「詩音」は、それぞれ「藤色」「紫苑」という紫色のバリエーションからの命名で、これは先生にうかがった橋田のテーマカラーが紫だったことによるもの。教師の「烏羽(色)」「黛」は、それぞれ「黒」のバリエーションですね。

「黒」については、シンプルに彼の「黒歴史」みたいなイメージからですが、同時に「苦労」というダジャレみたいな意味もあります。光がない、暗闇、みたいなところから、人の見えない部分というイメージもありますし、中学生だった頃、まだまだ人としての視野の狭さがあって、その視界を遮る黒、みたいなイメージも含みます。

実は、当初、編集さんが考えていたのは、「橋田悠の黒」が4筆目、「大葉真由の藍」が5筆目という構成だったのですが、僕的には、読み終えたときに少し上を向けるようにしたいな、と思いましたので、今の構成にするよう提案したのですよね。短編集って、結構、バランスとか読み味とか考えてお話を配置するのですが、Xで流れてくる感想など拝見しましたら、結構推しキャラの章から読む、という方が多くて、マジか、盲点だった、と思った次第ですね。

ちなみに、原作中最大の謎と言ってもいい、橋田がなぜ関西弁でおさげなのか、というところについては、一応ちらっとその理由を聞かせていただいたのですけれども、それはいつかブルーピリオド原作漫画中で、先生自身に明かしてもらった方がよいのだろうと思うので、本作では言及しておりません。

そこ深堀りしないのかよ、と思った方もいらっしゃると思いますが、小説はやっぱり、あくまで原作の添え物ですので、本当においしいところというのは原作で味わっていただいたほうがいいんだろうと思いますね。


ということで、今回は『小説ブルーピリオド あの日の僕ら』のウラバナシ第二弾をお送りいたしました。映画を見て原作を知った方も、映画でもう一度原作読み返した方も、よろしかったら小説版も手に取っていただいて、読んでいただけると嬉しいなと思います。

あれ、Amazonでの評価めっちゃ高くない……?
ありがとうございます。w


文庫新刊も予約受付中ですので、小説版ブルーピリオドで、僕の作品にも興味を持ってくださった方がおられましたら是非是非。









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行成薫(小説家)
小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp