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余韻

おはようございます。今週も書いていきます。

ゴミ箱に捨てちゃえばいいと思います、というのは小学校一、二年の記憶である。クラスでいじめのようのものがあり、先生がその処分をどうするか、問いかけたところ、ある女子が言った。捨てるのは、いじめた人間である。

何があったのか、そのあとにどうなったかは定かではない。僕はそのあと、転校をしている。親によれば、自ら転校したいと申し出たということだが、記憶がないので、わからない。その記憶がない中での余韻が、冒頭である。

そのことを思いだすのは、いま身の回りにはびこる、正義感が理由である。何々したほうがいいと思います、誰々さんが悪いと思います、というのは、身体が大きくなっても変わらない。持ちかける当人は、正義のために言っているのだと、信じてやまないだろう。

この正義の依拠するところは何か。それは自らの内にある感情ではないか。見ていて不快であるとか、傷つくとか、そういった自分を守るための盾が、正義へと伸びて、やがて鈍器になる。僕はそれを、歪んだ正義感だと思う。

哲学者の内山節さんが、2020年2月9日の東京新聞で述べている。「物事を判断するとき、私たちは感情でするときと、知性で判断するときとがある」コロナにしても、選挙にしても、私たちは感情ばかりで判断していないか、という提言だ。その背景は「バラバラな個人をつくりだした」社会である。

自分に注目してほしい、自分が不安だから、感情のみで判断をして、正義をふりかざす。叩かれた相手は、自分の身を守るために、また感情で抗おうとする。いま起きているのはこの応酬ではないか。知性の入りこむ隙はない。

あのとき先生は、なぜ僕らに問いかけたのだろうかと思う。そしてゴミ箱に捨てればいいと言った彼女は、何を守りたかったのか。感情の判断を促した時点で、先生は政治を誤った。小さな教室に、知性の判断をもたらすのが、役目ではなかったか。

「バラバラな個人」の社会は、しばらく変わらない。ならば、せめて知性でもうすこし埋められないか。ゴミ箱に捨てられる末路となった彼が、実際に何をしたかは、誰も知るところがない。残ったのは、あの余韻のみである。

今週も読んでくださって、ありがとうございました。よい一週間をおすごしください。

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