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会話の像

おはようございます。きょうも書いていきます。

会話というものはおもしろい。一対一でしているのかと思うと、実は周囲の人間も巻き込んでいたりする。SNSをやっていると、会話というものが何の理由や用途で出現するものなのか、会話というのはそもそも何であろうか、ということを考える機会が多い。

以前にこういうことがあった。まずタイムラインのようなオープンな場所で話しかけられる。内容はやっていた仕事への依頼であった。それからクローズドな環境(DM)へと移行する。すると、先方の勢いが途端になくなる。代わりの担当者に繋ぎますといって、当人はすぐに去ってしまった。

またその反対もある。オープンな場所では素知らぬ顔、フリをしているが、クローズドな場所になった途端、饒舌になる。ずいぶんとウェットな関係を求められたりもする。

いずれも周囲の環境に配慮しながら、人格を分けているのである。再構築、というのが正しいかもしれない。自らを相手という鏡に照らすのみでなく、四面鏡、五面鏡といったように、他の人間も巻きこんで、姿を映し出すのである。組み合わせによって、人格はそれぞれ異なるのであろう。

世の中ではそれが頻繁で細微に至る人と無頓着な人とで、グラーデーションのごとく分けられる。僕自身も、わりと気にしている方であるとは思うが、自分の変化よりも、相手の変化が取り立てて気になってしまう。(その点で自分も気にしているのだと認識できる。)

話を戻すと、会話というものは、自己確認のようなものではないかと思う。どんなとき、どんな場で、誰(等)の鏡に自分を映し出すのか。いずれも、紛れもなく自分なのであるが、見たい自分、というのが少なからず誰しもに存在するのである。そのためのキードライバーが会話なのだ。

誰と会話しているのか、の問いの範疇を、周囲の人間にまで拡げてみると、自分が見えてくるかもしれない。もちろん見たくないところまで、である。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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