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それをしたのはあなたなのか? その2

「あなたは行為者ではありません」

前回そう書いて終わりにしました。今回はその続きです。
この人生で自分自身は何もしてはおらず、ただ流れの中で起こっているものだとすれば、そこから様々な疑問が湧いてきます。

自分が何もしていないのなら、努力する事に一体何の意味があるのか?

良く文章を読んでいる人なら、この言葉のトリックに引っかからずに
済むのです。
そうです。全てのことがあなたを通してただ、起こってくるものなら、
努力もまた同じなのです。
努力もまたあなたを通して起こるものなのです。

努力もそれが起こる時にはあなたに起こるのです。
そうでない時は努力も起こりません。あなたが努力をする(起こす)
のではないのです。
人生の中で、努力の必要な時にはそれが起こります。
一般に側から見ると物凄い努力をしているように見える人が、
本人に聞いてみると意外にもその自覚がそれほどなかったりするのは
そのためです。

自分が何もしていないのなら、放っておいたら一日中ベッドに寝転んでいるような怠惰な生活になるのではないか?

これも先ほどと同様です。
寝転んでいることも、頑張って何かをすることもあなたのすること
ではありません。
日々の生活で一日中寝転んでいることも、忙しく一日を過ごすことも
あるかもしれません。
でもそれは、あなたの意志とは関係ないのです。

自分が何もしていないのなら、人を傷つけたり犯罪を犯しても
自分の責任ではないのではないか?

これとてやはり同じなのです。
全ての行為はあなたを通して起こるものです。
確かに犯罪も起こるかもしれません。その時にあなたには一切、
責任はないのでしょうか?
そもそもあなたが本当の自分や世界、宇宙の真実を理解している時、
犯罪や人を傷つけることなど起こることはありません。
例えばあなたは火がとても熱く、不用意に触れば火傷することを
知っています。
気づかずに触れてしまうことはあっても、あなたが故意に炎に手を入れることはないはずです。
あなたが本当の自分自身を生きる時、真実への理解がある時、
そこに他人を害す可能性などあるはずもありません。

自分が何もしていないのなら、人生はただ、風に翻弄され続ける
落ち葉のように、人生の操り人形なのではないか?

それは起こることがすべて悪いこと、否定的なことだと決めつけていることから出てくる質問です。
確かに人生は時として過酷で、争うことすらも大変なことがあるものです。
川の水は大海を目指して流れていく中で、数々の障害にぶつかります。
しかし、たとえ一時滞留したとしても、それはまた自然と流れ出し、
ついには大願果たすのです。
川の水は障害があっても、もう流れるのをやめたなどとは言いません。
また流れるのに必死になったり、障害に抵抗したりもしません。
ただ自然と一体になって流れていくだけです。
そこに苦しみや不幸などあろうはずもありません。

あなたが自分自身を行為者ではないと真に気づいた時、
そこから全く新しい人生が始まります。
それは抵抗や摩擦の全くない、とても自然でどこまでも穏やかな人生です。
それこそがあなたの探し続けていた「本当の幸せ」なのです。

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