能「鳥追舟」に見える日本人の価値観 -山井綱雄先生インタビュー-

2022年7月10日に催されるワキ方下掛宝生流 野口家主催の「華宝会」で、能「鳥追舟」のシテ方を演じられる山井綱雄先生に曲についてのお話を伺いました。

金春流   能「鳥追舟(とりおいぶね)」
【あらすじ】
薩摩国の有力者である日暮殿は訴訟の為に十余年間在京していた。その留守を預かるに身もかかわらず、家臣の左近尉は日暮殿の妻と子の花若に下人の仕事である鳥追をさせる。やがて帰郷した日暮殿にそれが見つかり、左近尉は不忠の臣として斬られそうになるが、日暮殿の妻に宥められ赦される。

金春流では約30年ぶりに演じられる「鳥追舟」ですが、そのシテを勤めるにあたり他の曲と違って特別お面白いと思われる点はありますか?

山井:いい意味で日本人の特性がとてもよく出た曲だと思います。

今回はワキ方に日暮殿と左近尉という2人がクローズアップされます。左近尉は悪役と捉えられがちですが、実は彼はあくまで自分の本分を全うしようとしているだけなのです。主人のいない間に国を乗っ取ろうとしたわけではないし、ただ国とそこで生産される作物を預かる身として、職務を忠実に遂行していただけ。一方主人の日暮殿の方は、訴訟に10年もかかってしまったけれど、それは国のためであって別に都でフラフラ遊んでいたわけではない。彼は彼でこちらも主人としての本分を果たしていただけなのです。

このように2つの正義・信じるものが衝突した時に争いが起きる、というのは古今東西、昔も現在も同じですね。もしこの話がシェイクスピア劇だったら、最後は皆殺しで終わってしまうでしょう。でもこの「鳥追舟」は違う。ここで母親が第3の理論を持ち出して争いを治めてしまうんです。

「日暮殿、私と子供を10年間放って置いたあなたのことは絶対に許せない。あなたが左近尉を今斬ると思っている以上に、私たち親子はあなたに怒りを持っている。だけど、もしあなたが左近尉を許すというならば、それもここで終わりにします」と言いだすんですね。日暮はぐうの音も出ず、最後にはそれに従うわけです。妻にそんなことを言われてしまう彼は、10年の間に自分の妻子すら解らなくなっていて、挙句に息子に向かって「お前は左近尉の息子か」なんて大失言を口にしてしまうような、ちょっと情けない感じもします。

中世という時代にも関わらず、女性の意見をここまで強く最後まで通した妻はしたたかで強いですね。息子を鳥追いで働きに行かせなければならない、となったら、私も行く、と。いや奥様はいいですと言われても、幼い息子が働かねばならぬなら自分も一緒に労働してやろうじゃないか、と啖呵を切って自分から船に乗り込んでいく。このような女性のしたたかさ、しなやかさ、強さ、優しさが争いを丸く収め、全てを水に流してやり直す方向に大団円させていくという曲の展開。これは人間が生きていく上の1つのヒントだと思うんですよね。

人間は価値観が違う同士が生きているわけですから、当然争いが起きます。その中でどのようにやりくりしていくか。それについて、日本の文化、日本人の心・やり方としてこの曲では描かれています。私はちょうど今、別の舞台でシェイクスピアの「タイタス」を演じていますが、そちらは真逆の結末です。最後はいがみあって、憎しみ合って、負の連鎖で殺し合うというところまで行くのですが、「鳥追舟」は「最後は子々孫々まで仲良く暮らしましょう」という結末なんですね。これはいかにも能楽的というか、日本的、日本人の素晴らしい見識が込められていると私は思います。それはものの考え方、価値観の一つのヒントになるんじゃないかと。そういう意味では「鳥追舟」はただ珍しいだけじゃなく、日本人らしい感性、考え方を盛り込んだ曲だと私は思います。当日はそんなところを感じていただければ嬉しいですね。

能弘さんたちにお話を伺ったところ、ワキ方は舞台装置として淡々と物語を進行させていくだけで、曲の心情的なものは妻の心の動きにクローズアップしている、というようにおっしゃっていました。シテ方として、妻の心情としてはどのように感じられますか?

妻の心情は非常に辛く悲しい、ですね。相当な苦しみを受けていて辛い心情、ということは間違い無いです。でも、最後にはそれをチャラにして自分の夫に突きつける。そうすると旦那も「申し訳ありませんでした」とあっさりそれを聞き入れてしまう。そんな心情の動きのギャップの大きさは、とても面白いと思いますね。

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