見出し画像

柴崎友香さんと文体。

iPhoneで日記を書きたくはないのだが、MacBookが古過ぎて起動するのにも、滑らかに文字を入力するのにも時間がかかり、どうかすると20分くらいは待つので、iPhoneで書いている。

友人の勧めで浜口竜介監督の〈ドライブマイカー〉を観て、そこから〈寝ても覚めても〉を観た。
そして、今は柴崎友香さんのことを考えている。

今しがた、柴崎さんのサイトの日記を読んできたので、文体が似る恐れがある。

柴崎友香さんと言ったら、われらの世代では〈今日のできごと〉という田中麗奈と妻夫木聡が主演した作品で有名で、ほかの作品もあの大阪の若者達のぼやんとした群像劇が多いように思う。

というか、あんまり読んだことないけど、多分そんなにたくさん書いてないと思うけど、わずかに読んだ作品がそういうものが多くて多分そうなのだと思う。

柴崎さんの小説でも、日記でも、魅力的なのは、すごくふつうな話し言葉の大阪弁(ないし、関西弁)やと思う。
と、えせ大阪弁を気取りたくなるくらい、あの言葉達がぐっと柴崎さんの世界に引き込んでくれる。

大きな波はないんだけど、淡く印象を残していく作品、という感じだろうか。

わたしは、ふだん小説をあまり読まない。大人になってから読まなくなってしまい、なぜかっていうとただただ現実社会のしんどいところを書いただけの小説があまりにも多くて嫌になっちゃったからだ。
ぎりぎり手に取るのは、森見登美彦氏と三浦しをんくらいで、この二人は現実のなかにファンタジーを書いてるから安心する。角田光代も少し読んでいた。
あと、柴崎友香さんくらいである。


今日の朝ごはん

そんなわけで紙の本離れが著しくなってしまい、最近は文章を読むのも書くのも、仕事を兼ねて、ブログやInstagramが多くなってしまった。InstagramばかりやっているとInstagram特有の〈余白的文章〉が自然と身についてしまう。
余白的とは本来視覚に対する言葉であるけれども
ひと画面で見ることと、ブランドなどのおしゃれ感のアピールが一緒くたとなり、文章自体が余白的となっているのだ。


と、今書いていてわかりました。
メディアが変わると文体が、それは書く人格が変わりますね。

柴崎さんの小説や、奈良にお住まいのお友達の森見登美彦氏の対談など読んでいると、その関西弁の持つ柔らかさに〈ほうっ〉とした憧れを抱くのです。
わたしは関東の人間なのだけど、親友は京都の子で、こうして関西の作家さんやミュージシャン(くるりとか)が好きだったり、関西弁めっちゃ好きやわあと思っている。
東京弁と違くて、力の抜けた優しさみたいなのがあって、それは言葉の持つちからだと思っている。


先ほど、柴崎さんの日記を読んできたら、もう改行はしないし、一文が長いし、フルーチェのこととか書いてはるし、なんだかとってもいいなあ、くそう、と思ったのだった。
わたしが京都弁に憧れてInstagramにおのれの文体を乗っ取られている間に(わたしももともとぎっちり一文が長い系の人間である)、柴崎さんはすてきに力の抜けた文章を書いてらしたのだった。

作家さんてそんな時々しか作品発表しなくても生活できるんかなあ、どうやって生活してはんねやろ、いいなあ、というため息をつきながら、おもしろい小説たくさん読みたいなあと思っている梅雨寒の夜です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?