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ただ悪とするのはつまらない。

体の不調を抱えることは、生きていれば誰しも少なからずあることと思う。
私の場合はそれが腰痛だった。

はじめて痛みを強く感じたのは、高校生の時。当時は部活動でスポーツをしていたので、疲労による体の張りくらいだろうと考えていた。
しかし、病院に行って言われたのは「坐骨神経痛」。
当時の私にとっては聞き慣れない名前。
そして驚いたのが、病院の先生から言われた「坐骨神経痛というのは一度発症すると一生付き合っていかなかければならないよ」という言葉だった。
え?一生?それってけっこうひどいんじゃないだろうか?と心配になったが、先生曰く
「まあ珍しいことじゃないよ。痛みに波はあるし、時々ケアしてうまく付き合っていけばいいから」ということだった。

その時から坐骨神経痛との生活ははじまった。
病院で言われたように、確かにずっと痛いわけではなく、落ち着いている時もあった。
しかし痛みは突然、前触れもなくやってくる。
ひどい時は椅子に座っているのもつらい。
授業を受けているときもお尻が痛くてじっとしていられず、座布団を持ってきて敷くなどするまでなった。

そしてしばらく経ったある時、驚くべき発見があった。それは、
「坐骨神経痛。あなた意思を持ってない?」ということ。
私が「痛くて鬱陶しいな」という反抗心を持つとますます痛くなり、なんとなく労わるような気持ちで宥めすかしていると少し落ち着いてくる…ような。

最初の方こそ「いたいな嫌だな。こんなのとずっと付き合っていかなきゃいけないなんて」と思っていたが、それに気付いてからはもう諦めて「痛くなったらまず無理せずね」と治療に行くなどして労わるようになった。

そんなこんなで、痛いのが引いたり起こったりを繰り返しながら会話するように生活していて、坐骨神経痛はさらに私にサインを出してくれるようになった。

他の不調を知らせてくれるようになったのだ。

病気になる前、また精神的に落ち込んでいるとき、必ずと言っていいほど腰痛がやってくる。
それで「ああ私不調なのかも、ゆっくり休もうかな」と思えるのだった。

ーー考え方によっては、不調がいちばん弱い部分に出ているだけとなるかもしれないけど、腰からのサインと考えた方がおもしろいからそうしてる。

発症した時こそ、まだ10代なのに「腰痛いー」と嘆いているのはなんだか悲しいなと思っていたけど、今はなんとなくうまく共生出来ているとな思う。

病をただ、悪!と決めつけてしまうのでは少しつまらない。いたたた…と悩まされることもあるけど、その中間、グラデーションのところで少しだけ楽しく、恩恵を貰いながらやっていきたいよなあ。と思うのだった。

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