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「魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く」奥野修司

スピリチュアル、オカルト好きの趣味で選んだ本。その趣味を満足させる話が満載しており、やはり霊魂は存在すると信じるに足ると改めて感じ入りました。

……亡くなってから自宅の写真を撮ったら、ガラス窓にぼんやりと亡くなった息子が写っていた。

……亡くなった兄からメールが届いた(その後、受信欄から消えてしまう)。

……見つかっていない、かかるはずのない叔父の携帯に電話したら、死んだはずの叔父の返事が聞こえた。すぐに切ったが、二度目は繋がらなかった。

……亡くなった長男の好きだったおもちゃが、長男のことを話題にすると、何度も動き出したり、震災後に生まれた弟が夜中に長男と遊んだ、と弟が言ってきた。

……父親が亡くなったと思われる時間、扉をノックする音がした。見に行くと誰もきていない……そのノックは親類縁者のところにも同時に発生した。

……同じく、夫が亡くなったと思われる時間。自分の目の前に姿を現して消える。その後、扉に影になってゆらめいていた。

……亡くなった父親が現れたという場所に行くと、全然見つからなかった家族の写真が流れ着いていた。

……なんとか救われた父親だが避難所の一室で亡くなった。その時窓の外には父の好きだった満開の桜があった。
数年後、その桜を見ようとそこに戻ったが桜などなかった。関係者に聞くと、切ったりしていない、そもそもそこには桜は一本も植ってなかった、とのこと。

……亡くなった子供が生前の歩いていた時のリズムで天井を歩いたり、壁を叩く音がする(この子は2歳で普通の人のように喋り、母親の体内でいたことを覚えている。
そして、生まれる前に母親を空から見て、母親の子供として生まれたかったと考えていたという)。

……ある店でそこにいた女性から、自分の後ろに亡くなった両親の姿が見えると言われた。両親が伝えたいことがあるとのことでその女性が代弁したが、まず両親なら言うであろう内容だった。
そして、その女性が、両親が言いたいことを言い終えたから帰っていいか、と聞くので了解したら、白い光になって消えていった。その後、それまであった肩の痛みがその瞬間に消えてなくなった。

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16の章に分かれて体験が綴られており、一部だけ記しました。

みな感慨深いエピソードであるけれど、この本はそんな霊体験を、興味本位で味わうものではないと途中から気が付きました。

語ってくれた人たちの生い立ち、亡くなられた方との関係とともに、その方の人となりが記されています。
その内容から、この震災がどれほど深く人々を傷つけ、悲しませたかが強く感じられました。

とにかく、悲しい。悲しすぎる。
自然の前に人は抗いようのない存在なのであることを改めて知りました。

ところで、語ってくれた方たちは皆、その体験を怖がってはいないようです。それどころか再会できたと喜び、いつまでも会いたいと考えています。やはり、大切な人との突然の別れはあまりにも厳しいものなのです。

筆者は、彼らはこうやって語ることでセルフケアを行なっているように感じた、とのこと。喪失体験のみならず、悲しみは人と分かち合うことで軽くなるものですよね。

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この本にはその他、いくつか考えさせられる内容がありました。

「津波が浸水したエリアを描いてみると、ほとんど埋立てた所か、沖積地なんです」人間は自然に逆らって孜々営々と海を陸地に変えてきたが、津波はそれを元の自然に戻しただけなのかもしれない。(p162)

「(お迎えとは違って)幽霊は正常な意識を持ちながら、身体的にも異常がないのに発現する現象だ。(中略)おそらく、この社会が合理的ですべて予測可能だと思っていたのに、それが壊れたときに出てくるんじゃないか」
「集合的無意識のように、人間の奥深いところに組み込まれたもので、強い恐怖が引き金になってあらわれるのだろう。人間が予測不可能な大自然の中で生きぬくための能力だったのかもしれない」(p11)

「お迎え」とは、臨終時すでに死んだ親類縁者の姿を見る体験のことであり、東北地方ではよく言われているようです。

また、東北地方には「オガミサマ」という、恐山のイタコ、沖縄のユタのように死者の霊を呼び出して何かを告げるという人がいるとのこと。
東北地方はそういう太古の宗教的な営みが残っている地域なのかもしれません。

20240130

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