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NOWHERE MAN

 一

 梅雨の中休みの爽やかな風が窓から入ってきた。室内は風になびくレースのカーテン以外、全ての家具は運び出され、アパート前に駐車してある高野のピックアップトラックに積み終わったところである。

 風は時折、大きくカーテンをなびかせ、我々三人の周りを吹き抜け、南に向いているベランダへ流れていく。思い悩むように滞ることがあったかと思うと、時には入ってきた窓から出て行こうとカーテンを窓に押し返す。風には意志などない。しかし我々の思った通りには流れ行かない。

 初夏の清々しい風であり、家具を運び終えた我々の肌から汗を消していく。

「こんなにいい風が入ったのね、この部屋」

 ティーポットから三人分のハーブティーを注ぎ分け、真代が言った。

「家具が取り払われたから、風通しが良くなったんだよ」

 真代からティーカップをソーサーごと受け取りながら高野が言う。僕も、受け取る。

「そんなものかしら……この程度の広さの部屋なら、家具のあるなしは関係ないんじゃないかしら」

「関係あるさ、風も空気の塊だろ、室内の塊を押し出す上で、家具は大きな抵抗になるはずさ」
 理屈っぽく高野が言う。

「そう言われると、もっともらしく聞こえるわね。それとも、風の勝手、なのかも知れないわよ。風の気分、あるいは風の思い違い、とかね」

 風に意志はない筈だ。もちろん、僕は否定する。

「人間ならそれは言えるかも知れない。勝手、気分、思い違い、はあり得る筈だ」

 そして、入ってくれば、出て行くことも当然あり得る筈。

 僕は飲み干したティーカップをソーサーに戻し、ティーカップの内側に散らばるペイズリー調の不規則な柄を見つめる。別れにミスマッチしたお茶会だと思う。このカップとソーサーは、僕と真代がここに住み始めたとき、引越祝いとして高野からもらった物なのである。ハーブティーは真代がいつも飲んでいた物の最後の残り。シュガーは僕が提供した。 ここに越したのは二年前の秋だった。

『結婚の前提という訳ではない』というお互いの確認の元に暮らし始めた。

 真代は、とりあえず事務所に所属してはいるが、自分から仕事を取ってくる殆どフリーランスに近いアナウンサー兼自称女優。僕はただの会社員、であり、真代と僕との生活はすれ違うことが多かった。

 僕は夜こそ遅く戻ることもありやや不規則だが、朝の出勤時刻と休日は規則正しいと言える。ところが真代の仕事にはあまり規則性というものがない。

 曜日に関係のない出勤、まちまちの出勤時刻、突然の呼び出し等々、かなり不規則、と言える。

 唯一、規則的と言える仕事が、この春から毎週月曜日に受け持つようになったラジオの深夜放送のパーソナリティーである。しかし、オン・エアの翌日は未明に帰宅し、すぐ眠るため、僕は扉の閉まったままの真代の部屋しか見られないこととなった。

 僕の規則性と真代の不規則性、このすれ違い状態は決して嫌なものではなかった、と思っている。ずっと一緒であれば、いつかどこかで途切れてしまうと思う。顔を会わす時のお互いのテンションの高さが大切だと思っていた。

 しかし、真代のテンションは良く変動した。多分に性格から来るものだと思うけれど、一言も喋らない日もあるにはあった。そんな日は僕にとって物足りないし、休日などに一日中僕の部屋のベッドに潜り込まれている時は、災難だった。僕のテンションはほぼ一定であったが、真代のテンションは、僕の遥か上にいたり、下にいたりしていた。

 それはともかく、僕と真代は別れることとなった。


 高野がニッサンのピックアップトラックの荷台を確認し、荷物が固定されているかどうか、一つ一つ丁寧に見ている。

 僕と並んでその作業を眺めていた真代は、エンジンをかけるために運転席に入り込んだ高野の動きを確認した後、持っていたバッグから手紙らしき封筒を僕に渡してきた。

「後で読んでね」そう言った。

 僕は大袈裟な身振りで、それをほぼ真上にある太陽に透かし見た。

「珍しいことをするもんだ」

「止してよ。彼に見られたくないから」

 苦笑いしながら真代が言う。僕はその手紙をジーンズのポケットに押し込んだ。

「悪いと思ってるわ……こういう形で別れるって言うことを」

 運転席から高野が出て来て、こちらへ向かっている姿を見つめながら、真代は言った。幾分、胸を張って。

「でも仕方ないと思う。何度も聞きたくないでしょうけど、あなたの方より、彼の方を 好きになってしまったのだから」

『その通り、別に気にする必要はないさ』僕は心の中でそう呟いた。

 高野が戻ってきた。真代は高野の隣に立った。僕と簡単な挨拶を交わし、二人は車に乗り込んだ。 車が動き出したとき、真代が窓から顔を突き出し、こちらに向かって手を振った。とても元気そうで、素敵な笑顔だと思う。僕も手を上げてそれに応えた。

「その通り、別に気にする必要はないさ」 今度は口に出して呟いてみた。その声に反響するものを僕は期待していたが、僕の心の裡には何も現れなかった。僕にはそれが少し不思議に感じられた。

 真代の部屋に戻り、窓とベランダのガラス戸を閉めた後、受け取った手紙を少し迷ったあげく、封を切らずに部屋のまん中に置いて、部屋を出て鍵を掛けた。


 それから数日は、真代の部屋の扉が閉じられたままであるため、真代がいなくなったことを思いださない事もあった。しかし、真代宛のダイレクトメールを見たり、流し台の下に飲み残しの赤ワイン(真代が買った物)があることに気づいたりすると、彼女が去ってしまったことを思い出すのだった。『有る物』で『いない事』に気づくのも妙な話ではあるが、何にせよ、そんな時、あの別れのシーンとその時感じた不思議な気持ちを思い出していた。



 再び梅雨空が戻り、梅雨明け前の激しい雨が降った。西日本では豪雨による災害が発生したらしい。

 真代が出て行った翌日から三日間は多忙な仕事の日々が続いた。しかし、真剣に考えれば本当に多忙なのかどうかわからない。仕事なんてものは、やりようによっては多忙にしたり、そうでない風に済ませることも出来た。仕事にどれだけ意識的に自分を投入するかだけなのだから。ともあれ、今取りかかってる仕事を一段落つくまで仕上げ、それから二日間、会社を休むこととした。

 別に何か予定があった訳ではなかった。ただ、鍵の掛かった真代の部屋の扉を三日間見ていたら、ほんの少しだけいつもの生活から抜け出したくなったのである。週末の二日間と合わせると四連休となり、上司は初めいい顔をしなかったが、特に詳しい理由も聞かず、届出書に捺印してくれた。

 雨は止まなかった。強い降り方は時折、風に乗ってベランダ越しにガラス戸にまで大粒の雨を叩きつけることもあった。

 昼前に目覚めてから、簡単な食事を作った。マフィンを二つに裂き、マヨネーズを塗って焼いた上にレタスとハムを乗せたサンドイッチ。そしてカフェオレ。

 天気は悪かったが、外出の予定もなく日がな一日のんびり過ごせる休日は久しぶりであったため、爽快とは言えないまでも、気分は良かった。

 FMの天気予報によると、雨は午後には上がり、時折、晴れ間を見せることもあるが、所によっては雷雨となることもある、と慰めにもならない予報を伝えている。

 食事を済ませ食器を洗った後、居間のソファに腰を掛け、タバコを一本くわえ火を点けた。真代の部屋の扉を見つめながら、ぼんやりと真代との別れについて、いや、別れの後から感じ続けている、不思議な感情について思い返していた。

 僕と真代と高野は学生時代のアルバイトを通じての付き合いであり、もともとは真代と高野のコンビに僕が入り込んだようなものであった。二人の間を裂いた、というわけではなく、三人が揃ってからかなりの時間を経過してから僕と真代がそれなりの付き合いを始めるようになった。だからといって高野には別段、代わりもなかった。彼には別に恋人が存在していたのだから。

 真代が別れを言い出してきた時は、しばらく音信の途絶えていた高野が僕等のアパートに再びやって来るようになって約一ヶ月が経った時だった。

「あなたのことを嫌いになったわけじゃなくて、高野君の方をもっと好きになった、ということ」

 真代の言葉は論理的で説得力があった。普段の声とは違うアナウンサーとしての声で告げられたため、余計、そう感じられたのかも知れなかったが、僕は素直に了承してしまった。

 それから数日、僕は真代との日々を振り返っていた。

 彼女の無秩序が僕に何か影響を与えただろうか。

 真代の無秩序は仕事による生活リズムの変化と性格によるテンションの落差によって構成されている。

 初めの頃、僕は軽い混乱を起こしたこともあったが、途中からは、その無秩序に伴う結果の変化を楽しむ境地に辿り着いていた。この姿勢が真代にとって安定感と見られてしまったのかも知れないが。

 日々、変化はあった。しかし、終わってしまえば、僕の中の唾棄すべき安定感は変わらず、結論として、彼女からの影響はなかったのではないか。つまり、真代は僕にとって必要な『道』の一つではなかったのだろう。

 そしてまた思う。

 僕が愛の対象である女性に求めるものは何だったのだろうか。真代との二年間は、結局、僕にとって満足できるものではなかった。だからこそ、あの別れの時、真代が手を振りながら僕の目の前から去って行った時、自分の強がりを否定する本当の心が現れてこなかった事への不思議さを感じたのである。つまり、真代を失う事は何にも悲しい事ではなかった事を、別れの瞬間に理解したという事である。

 本当に真代が必要な訳ではなかったのである。

 でも僕は真代が好きだった筈じゃないのか。それなのに、失う時に何故悲しみが伴わなかったのか。今回の自分の心の非論理的な働きによって、真代の存在意義が問われる事となったのである。

 二年間『愛していた』と思っていた筈がそうではなかったとは。それとも愛が変質したのかも知れない。真代とは別れを告げられるまで別れようと思ったことはない。満足な状態とは言えなかったが、少し改良しさえすれば、将来に期待も出来ると思っていた位である。

 本当に真代を愛していたのではなく、愛ではない他の何かによって真代との生活を望んでいたのだろうか。とにかく、僕の中に愛は失われていたのであった。

 僕は愛すべき女性を見つけることができるのだろうか。女性に何を求めようとしているのか。遊び相手、セックスの対象、カウンセラー。僕は真代とはそれなりに語り合うこともあり、遊びにもよく言った。仕事の愚痴を聞いてもらったこともあったし、聞かされたこと(こちらの方が圧倒的に多かったが)もある。しかし、そんな関係が必要だったのだろうか?

 残念ながら僕の中では真代に対してそれらは愛を営むに必要な条件ではなかったように思う。真代にとっては必要条件ではあったかも知れないのだが。

 所詮、理性を越えたところのものである愛情は、常に育てる努力に基づくコントロールなしには消え去るのみである。しかし、義務感に裏打ちされた愛情の表現はやがて負担となるだろう。つまり、僕にとって真代との愛は、育てなければならないものではなかったのだろう、ということを無意識の裡に知っていたのかも知れない。

 ならば、僕にとっての育てるべき愛情とはどういうものなのか。そしてその対象となる女性とはどういう女性なのか。

 今、答は見当たらない。二十代初めの頃の溶鉱炉のような愛の中に答はあったのだろうか。今は行方知れずの幾人かの女性たち。無償の愛、高まりゆく魂。それを捧げ、また強引に得ようとした天使たちに再び求めてみるべきなのであろうか。

 真代は、僕の良い部分を見て好きになり、そして高野の良い部分を見て僕から去って行ってしまった訳である。もっともな理由であり、何もおかしい所なんかない。

 It doesn't matter much to me.


 雨は少し小振りになっていたが、空は雨雲で斑模様となり、正午を少し過ぎたばかりだというのに、薄暗くなっていた。相変わらず風は強く、厚ぼったい雲を裂き、強い陽射しを招くこともあったが、天候の急速な回復は見込めそうになかった。

 三本目のタバコを吸い終えたところで、ベランダのガラス戸を開いた。ムッとした、湿り気を帯びた強い風が入り込み、室内の空気を先程までとはまるで違ったものに変えてしまった。

 僕は出掛けることに決め、ガラス戸を閉じた。


 地下鉄T線K駅からバスで五分ほどの所にK公園というかなり広い緑地公園がある。現在まだ造成工事が終了しておらず、一部利用不可だが、大部分は芝生に覆われ、樹木に囲まれている、散策に丁度良い公園になっている。

 芝生は雨で湿り、腰を下ろすことはとても出来ない。散在するベンチにも雨水が溜まっていた。

 この公園からバスでもう一駅、という所にT美術館があり、僕はそこへ行こうとしている。そこへ行く時は必ず、K公園停留所で降りて、公園内を抜けて行く。

 都会に緑が少ない、と言われることに対して都会人は説明不足なのじゃないか、と思う。こういう緑地公園は多くあるし、街路樹に至っては、地方には見られないほど立派に育った木々を植えている道路も多い。田畑森林が多ければ、それはそれで自然を楽しむことも出来るし、守ることも出来るが、それを保てない都会では仕方のないことであり、緑地公園や街路樹で緑の存在をアピールすれば良いのではないか、と少し息を弾ませ歩きながら僕は思った。

 K公園は街区をいくつか占有するほどの大きさであるため、幹線道路が公園を南北に二分するように走っていたりする。また、この幹線道路を越えるための橋が架かっているが、地面よりかなり高い所に架かっているため、公園内が良く見渡せるようになっている。橋の中央に立つと広い公園も所詮、街のほんの一部であることがはっきりするため、少しわびしくなることも否めない。

 橋を渡り切り、円形の広場を横切ると、T美術館の建物が前方左右に広がっている。建物はむき出しの鉄骨と巨大なガラス板、白木にやはりむき出しの大理石と沢山の丸い穴を穿った軽合金によって外壁・天井・柱が拵えられている。冷たさと暖かさが同居している。

 二・三年前に開設されたこの美術館は二十世紀の現代芸術品のみを収蔵・展示することにしている。いわゆる現代芸術が堪能できる訳だが、鑑賞する楽しみよりも、意外な驚きを味わうことの方が多く、結構楽しめるのである。

 玄関より中に入り、冷気を浴びると一気に汗が引いていく。料金を支払い、展示室へ向かった。いくつかの奇抜とも言える芸術作品が僕の目を奪う。

 現代芸術といっても殆どの作品が『抽象芸術』で括られるものばかりである。抽象表現主義、ミニマルアート、プライマリー・ストラクチャー、ドリッピング、ステイニング……受付嬢から貰った解説書に並ぶこれらの言葉は芸術のフィールドの広さを誇ると同時に、それを大義名分にした狡さをも物語っているように思える。

 心地良さを提供する抽象表現はまだ許せると思う。しかし、完全に作者本人にしか理解出来ない感情あるいは思考から、表現への移行といったものを見者に対して理解を要求することは、作者の奢りなのではないかとも思うが、それは一つの賭であり、万人に認められないことがあったとしてもそれは仕方のないことであるように思うし、逆に万人に良く解るものが、陳腐という評価を受けてしまうことも仕方のないことであると思う。

 果たして芸術には、観て貰う人が必要なのだろうか、とも思う。


 ヴァザルリの絵で目をチカチカさせながら次の展示室へ行くと、そこは彫刻作品の展示室だった。彩色された金属板が複雑に折れ曲がったものや、蛍光灯が何本か組み合わされたものなど、それぞれが強烈にその存在を誇示していた。

 銀色の立方体がいくつか壁に貼り付けてある作品が前方にあった。これらの物たちが主張することを考えてみようと足を進めたとき、一人の女性がその前に佇んでいることに気がついた。

 アーシー・カラーのワンピース姿で腕組みをしたまま、その女性は作品を見つめていた。まるで病んで伏せっている立方体の具合を心配そうに看ているかのようであった。僕はその姿をじっと見つめていた。

 やがてその女性は僕の視線に気づき、移動しながら、一度軽く視線を合わせすぐに目を伏せた。そして気がついたらしく、素速くもう一度僕の方に視線を合わせた。その時の表情は驚きに感情を凍てつかせたかのようであったが、しかし次の瞬間には満面に笑みを湛え、感情を僕の方に開放させてきた。

「こんにちは。突然で驚いちゃった」

 その女性(大学時代、僕はその女性のことを有里と呼んでいた)はそう言って、またにっこりと微笑んだ。

「やあ……こんにちは」

 何とも間の抜けた応答であったが、僕も驚いていた。

 六・七年ぶり位の有里は、大学時代の華やかな明るさに替わって年相応のバランスの取れた、とても落ち着いた雰囲気を見せていた。僕の姿は彼女の目にはどのように映っていたのだろうか?


 しばらく二人で作品を観て回った後、展示室を出て美術館内のカフェテリアに入った。ほの暗い店内の横長い窓から外を覗くと、雲はかなり流れ去っており、強い陽射しが建物の軽合金の外壁を輝かせている。思っていたより天気の回復は早かった。

 僕達はお互いの仕事のことや最近の出来事などを話し合った。有里は今中堅どころの広告代理店に勤務しており、美術展の企画・運営を担当している、と言った。

「もう三年経つわ。早いものね」

「学生時代の専攻と、卒業してからのキャリアが生かされた訳だ」

「そうね。十年前じゃ専攻だ、キャリアだって言ったって『女』っていうことで職業にす ることは難しかったかも知れない。運も大きかったわね」

 有里はタバコに火を点けた。

「満足している?」僕は訊ねた。

「現段階としては、ね。取りあえず自分のバックグラウンドを考えた場合、まずまずの ポジションにある、と言えるわ」

 あまり満足していないのかも知れない。妙に理屈っぽく肯定してみせているところを見ると、そう思えた。でもその話しぶりは昔と変わっていないように感じられた。

「あなたはどうなのかしら」

 大学時代、僕達は恋人同士だった。そして二人とも自分自身の可能性を信じていた。何の裏書もない可能性だったが、若さだけが保証していた。そして相手の可能性も信じていた。有里は可能性の花を咲かせることが出来たようだった。僕はどうなんだろう。

「あまりぱっとしないが、まあこんなものだろう」

 僕は僕の中の違和感について語ろうかと思ったが、やめにした。有里に話すことが一番いいように思えたのだが。

 店内に客は僕達の他に二組のアベックがいたが、今その二組目が出て、僕達二人だけになった。

「六年ぶりになるわね、あれから」

「大学を出て一年後のことだったから……早いものだ」

「そう、早いものね。お互い進む道も異なってしまったけど、見かけはあまり変わってないみたいね」

「それって、ほめてるのか」僕は笑った。

 有里は腕時計を見て、時間だからそろそろ出るわ、と言った。立ち上がる前に、バッグから名刺入れを取り出し、一枚抜き出した。裏返し、電話番号らしきものを書いた。

「それが今住んでいる所の電話番号なの」

「前の番号に近いな」僕は以前の有里の番号をまだ覚えていたが、それと市内局番は同じだった。

「覚えていてくれたのね。そう、あの頃の近くに戻ったのよ…また前みたいに電話くれるかしら」

 そう言って、バッグを持って立ち上がった。僕も立ちながら頷いた。ちょっと意外な気もした。




 幼い頃、宇宙についてのある考えが心に浮かぶと、途端に自分の立っている足許が音を立てて崩れていき、奈落の底へ落ちて行ってしまうような感覚を覚えることがあった。小学校の高学年の頃、天体についての基礎を学んでいた。我々の『生活』を営んでいるこの場は地球という名の惑星の一つであり、月という衛星を従え、恒星の一つである太陽の周りを北極と南極を貫く軸を中心にして自ら回転しながら、一年かけて公転運動を行っている。そして、その他の惑星・彗星を含めたこの太陽系と同じように恒星を中心とした系は銀河系の中に幾百万とあり、そしてまた、銀河系のような星雲はこの宇宙の中に無数に散らばっている。各々が定められた法則に従い、ある方角へ高速で移動しながら回転したり、輝いたり、何億年という単位でその寿命を終えるのである。

 何億年という年月の長さと何億光年という距離の大きさ。当時の自分にとって(今の自分にとっても同じようなものだが)想像もつかぬ巨大な時の長さと空間の広がりを思うとき、自分の『人生』『生活』の時と場の何とちっぽけなことか、そう思うと足許が崩れ、奈落の底へ落ち込んでいくような感覚(それは不安といっても良かった。あるいは憂愁)に襲われる。今も、あの頃と比べ、遥かに見える数が少なくなった天の星々を眺めやるとき、同じ思いにとらわれる。

 こんな巨大な時空を目の当たりにして、僕は何をすればいいんだろう、そう考える時、無性にやりきれなさを感じてしまっていた。小学校高学年という年齢からすれば、早熟ニヒリストだったのである。

 その内、宇宙は有限であること。猛烈なスピードの膨張は停止しやがて収縮に転じ、再び一点に戻る時が来ることを聞いて、何かほっとした気もしたが、その時までには、太陽の寿命が先に尽きてしまっていることを併せて知った時、愕然としたが、僕自身の寿命を考えたとき、漸く我に返ることとなっていた。

 巨大な時空を前にして、ただ黙々と傲然と想像を絶する速度で、僕の知らない遠い遠い宙空の漆黒の闇の中で、巨大なクレーターに覆われた塊が、聞こえる筈のない轟音を上げながら、我々から遠ざかったり、恒星の周りを回転していたりすることや電波星がパルスを発信し続けている意味を考える度に、なぜ自分はここにいるのだろうか。その前に何故自分は自分であるのか(別のクラスの成績トップの彼女、スポーツ万能の彼でないのか)、そして、学校を出てしまって大人になったらどうすればいいのだろう、と考える癖がついてしまっていたのである。

 自分の存在証明の必要性を、宙空に広がる闇と星々の存在証明を考えることから引き出すことは本当にまどろっこしいことであったと今では思っているが、宙空の闇と星々が相手となっては、それから何か行動するにしても常に虚しさが付き従ってしまうことは致し方のないことでもあった。

 高校時代一杯まではそれでも、前向きに生きていた。社会生活というものを意識せずに楽しめるものが他にあった。灰色の受験時代の中にはいたものの、両親の暈の下で一般社会とは縁の薄い同世代社会の中でのびのびと生きていた気がする。

 しかし、大学へ進み、一人暮らしが始まってからは自由の刑が、僕を再び憂愁の渦の中に突き落としていた。求める対象を決めさえすればまず間違いなく見つけることが出来る(手に入れることとは別の次元の話だが)都会で生活を始め、目の前の視界がオール・クリアーになった瞬間、何と僕は求める対象を探す作業に骨を折る日々を始めなければならなかった。

 あの頃、抑えようのない自我というやつが、夏の積乱雲のように心の中に湧き上がってきて自分を苦しめる。異常に過敏になった自意識が、行動を意識をコンフューズする。行動の軸、と言うのか、規準の置き方が見えていなかったのである。自意識が『普通』を昂揚させてしまい、自我が『普通』を乗り越えられない、と深夜喚き立てる。欲望のアレンジメントが出来ない。やがて仮象の、低ランクの、取るに足らない欲望に振り回され、本当に必要な欲望が分からなくなる。そもそも『必要な欲望』とは何なのか。

 友人の数少ない下卑た経験談、手の届く、目の行き届く範囲の、そして自らの知能程度に適った書物による限られた、場合によっては偏った知識と情報だけが自我を映す鏡となる。そこに映る、時に英雄のような、時に怪物のような自分の姿に一喜一憂する自分。あの頃は自分を持て余していた。あの煮えたぎる自我を制御出来ないまま、方向を見失っていたのである。



  四


 眉間にしわを寄せたまま、大学・アルバイトの日々が過ぎて行く中で、やがて有里と出会うこととなった。

 大学三年生の夏。前期課程終了により、試験が行われていたある日、僕は一通のレポートを持って学生食堂で有里を待っていた。

 その頃僕はレポートの代筆屋をやっていた。事の始まりはその頃既に知り合っていた高野から頼まれて独文のテキストについて試験範囲の全部を訳してやり、彼から幾ばくかの報酬を得たことがきっかけであった。

「お前やる気あるなら、俺が客を集めてやろうか。その代わり二割を紹介料として貰うぜ、どうだ」

 都内出身者である高野は高校時代の友人や彼のアルバイト仲間(やがて僕もその仲間となり真代とも知り合うことになるのだが)に声を掛けることが可能であり、十分商売になることも付け加えて、高野が持ちかけてきた。

 僕は高野の取り分を一割五分に下げるならやっても良い、と答え、高野と共同で始めたのである。

 夏休み前であり需要は結構あった。しかし、専門的なものはコストと時間がかかりすぎるため、一般教養分野にとどめた。他大学や、専門学校生からの依頼もあり、お陰で夏休みは全て図書館通いとなってしまったが、九月には三ヶ月分をゆうに越える生活費が手に入っていた。

 依頼の中に、有里のレポートが混じっていた。

 それは生物学のレポートでいくつかのテーマの中から一つを選びまとめよ、というものであり、出題内容は簡単であったが指定された書籍を必ず読まねばならないため、その分コストと時間がとられる中ランクの注文であった。枚数は原稿用紙二十枚であり、高野は九千円プラス書籍代千二百円で請け負ってきていた。他にも注文が多かったため、夏休み前に仕上げ、高野に出来上がりを伝え、渡して貰うよう連絡しておいた。しかし、急用で高野が渡せなくなり代わって僕がアポイント場所に出向いた。

 約束の時間を十分遅れて有里はやって来た。その時まで僕は有里の事は全然知らず、高野の高校時代の同級生の友人で同じ大学の文学部の三年生ということしか知らなかった。

「これがレポート、原稿用紙二十枚。男文字がまずかったら、清書しといた方がいいと思うよ。それから、こっちが参考にしたテキスト」

 僕は事務的にレポートとテキストを有里に渡した。

「助かったわ。どうもありがとう」

「君の先生のテキスト使ってるから、評価悪くないんじゃないかな」

 有里はレポートをめくりながら、内容を確認していた。

「内容に質問があれば、どうぞ。なければレポート代九千円プラステキスト代千二百円 の計一万二百円をお願いします」

「いいわ、これで。はい。残金一万二百円」

 そう言って有里は財布をとりだし、代金を僕に差し出した。

「残金?」僕は訊ねた。

「ええ、手付金千円支払ってるから、残金は一万二百円でしょ」

『高野のやつ、アタマはねていやがった』僕は高野の行為に腹を立てたが、有里には関係のない話であり、何も答えず代金を受け取った。

「頼んでおいてこういうこと言うのも抵抗あるんだけど……」

 有里は立ち上がりながら言った。

「あんまりほめられた事じゃないし、何より勿体ないんじゃないかしら」

 ほめられた事ではないのは承知していた。大学にばれることはまずいとも思っていた。しかし、勿体ないとはどういう意味なんだろうか。

「アルバイト代わりなのかも知れないけれど、知恵の無駄使いなんじゃないかしら」

「無駄使い?」

「そう。あなたのレポートの評判を他の人から聞いて私もお願いしたんだけど、どんな人がやってるのかちょっと気になってたの。ただのガリ勉タイプかと思っていたけど」

 有里はちょっと俯き、それから顔を上げて言った。

「本当にしなくちゃいけないことが見えてないのね。そちらを早く探した方がいいんじゃないかしら、知恵の無駄使いで、勿体ないわよ」

 有里は立ち上がり、僕に手を振り、去って行った。

 僕は呆気にとられたまま、テーブルに腰を掛けて有里の後姿を見つめていた。


 この出会いをきっかけにして僕と有里はつきあうようになったが、結局一年と半年で終わった。性格は明るい方であったが、有里はそれまでに僕のつきあった女性と異なり、思慮深く、有里のいくつかの問いかけに対しては僕も考えさせられることも多かった。また、有里は当時から芸術に対する興味が強く、僕を何度も美術展に引っ張って行くことはあったが、それ以外は僕が誘ってもあまり外へ出て行くこともなく、お互いのアパートで時間を潰すことが多かった。

 有里は芸術に関わる職業に、それも一生続けられるものに就きたいと考えていた。

 僕は考え続けていた。 

 有里との初めての出会いの言葉が原因だったのかも知れない。何をしたいのか、ということについて。

 やがて、大学卒業と同時に僕等は別れることとなった。有里からの、一方的で理不尽な別れの通告によってであった。有里は卒業後ニューヨークへ行って、本場で芸術について勉強したい、と言ってきたのである。何年かかるか判らない、とも言った。僕は初めの内、その申し入れを思いとどまらせようとしたが、それまでの有里の熱い思いを十分承知していたため、結局了承し、戻って来るのを待つこととした。多分、一年位で戻って来るだろうとタカをくくっていたこともあり、手紙のやりとりもできる事だし、やがてまた一緒になれるだろうと少しのんびり考えていたのである。

 ところがニューヨークに発ってすぐに有里からの音信がすぐに途絶えてしまった。

 僕は途方に暮れかけたが、それよりも就職し、サラリーマンという着ぐるみと格闘していて既に疲れていたため、有里の事ばかりを考えている訳にはいかなかった。

 そして、一年ほど経って、有里は帰国した。

 有里から直接連絡があったわけではなく、友人を通じて知った訳だったが、僕は有里と再会し、もう一度やり直すよう話をした。しかし、ニューヨークで学んだことを生かすために今の時間を大切にしたい、と考える彼女の瞳の中には僕の姿は映っていなかった。

『決して嫌いになった訳じゃないのよ』

 再会し、僕の話が尽きてしまった後、有里はこう行った。僕は、『また好きになったら、声を掛けてくれればいい』と虚勢を張って、互いの前途を祝福して乾杯し、僕等は別れた。 ぼんやりと期待していた有里とのこれからを完全に否定され、僕は大切なものを一つ失ってしまった、と思った。 それから暫く、有里との出会いから別れまでの日々をトレースする日が二・三ヶ月続いた。

 有里の毎日は常にアグレッシヴで、明快な理由に裏打ちされたストレートな日々だったと言える。僕と過ごす日々だけが無駄な日々だったのではないか、とさえ今となっては思えてしまう。結局、僕の方は、出会いの時の有里の指摘によって、行き場を失っている自分に気づいただけで、有里との日々の中で出口を見つけることは出来なかったのだ、と思った。


 結局、休日の残り三日間は、無為に過ぎていった。相変わらず真代の元いた部屋の扉は閉めたままだったので、一日に一度、風を通すため扉を開いたが、手紙は元通り部屋の中央に置いたままであった。

 再び会社生活の日々が続いていた。入社して七年目、僕は中堅社員として主任なぞという肩書きを貰っている。会社員となり、生活のリズム以外に様々なものが学生時代までのものから切り替えられてしまい、嵐のような毎日の中で僕は組織人として変容してきた。

 しかし、僅かばかりの違和感が僕を時折本当の僕たらしめ、僕が今の僕であることに不快感を感じさせるようになっていることに気づかせてくれていた。 僕は会社組織の中に溶け込んでいた。

 Mと言う漫画家が機械(というか金属)と人間も含めた動物の肉体とが融合しあい、その結果、生物と物質文明との間に快いユートピアが現れる、というストーリーを描いていたが、丁度、あの漫画と同様に『僕』が『会社』にまさに肉体ごと融合してしまっている感触があった。僕は『僕』ではなく、『会社員としての僕』へと変容してしまったわけである。『僕』は会社で、『会社員としての僕』を演じる。

 『コトバ』と『習慣』。この会社で通用する『コトバ』。それは他では通用しない、あるいは死語化しているものかも知れない。この会社でまかり通っている『習慣』。それは他では既に打ち捨てられているものかも知れない。

 ある人が言った。『それでも会社は前進している。つまりそれは他では通用しなくともウチでは通用し、それによってウチはうまく行っているのだから、正しいのだ』と。 しかし、それは瞬間を捉えた発言であり、明日は何かの陥穽に陥るかも知れない。経験だけに裏打ちされた判断は、やがて新しい時代の中で空振りする時を迎えるのではないのか。

 二十代がやがて終わろうとしている。気がつけば会社組織が自我に対して方向性を与えて、アレンジメントしてくれていた。過敏な自意識は、システムとマニュアルという処方箋によってモデルを与えられ、会社生活という繰り返し行動の中で『判断基準』という軸が備わり、いつの間にか、壮麗な外壁が『僕』を取り囲み、やがて『僕』は自我からのリアクションを失ってしまっていた。あるのは、会社組織の暈の下で適当な鈍感さと、狭い、閉じられた系の中だけでしか通用しない因習とテクニックばかりになっていたが、心の片隅に僅かばかりの違和感も残っていた。

 僕は自由の中を生きている。僕を一つの閉じられた系の中に閉じこめておくことは出来ない。僕は全てを知りたい。その中で、一つの選択肢を選びたい、と思う。あてがわれた、決められたものでない、自分が手を伸ばして届いたものの先から、選びたい、と。

それでは、それは一体何?




「はい、ただ今替わります。お待ち下さい」

 隣の席で後輩が僕に電話を回してきた。

「高野という方から、外線です」

 僕は意外な面持ちで受話器を取って返事をした。遠慮がちな高野の声が返ってきた。

「今、少しいいか」

「ああ、それ程忙しくないから大丈夫だ」

「別にこの電話で話し込む訳じゃないけど、今夜、会えないか」

「今夜?」

「駄目か」

「いや、七時過ぎるけれど、いいか」

「ああ」

「何か話でもあるのか」

「ああ少しな。またその時に」

 高野が場所を指定し、僕がその場所を確認すると電話は切れた。話、というのは多分真代がらみのことだろう、と思った。


 約束の七時に五分程早く着くと、高野は既に待っていた。店内はエスニックな小物で飾り立てられた無国籍風なパブであったが、飲み物までがエスニックというわけではなかったが、カクテルは豊富に揃っていた。

「待たせたな」

 僕は高野に挨拶し、近寄ってきたウェイターに、ジン・トニックを頼んだ。

「いや、こっちも今来たばかりだ。早かったな、そっちも」

「下っ端ほど忙しくなく、管理職ほど責任が重くないから、都合は付け易いんだよ」

「それは良かった」

 僕はスーツの上着を脱いだ。

「そっちはどうだ。儲かってるのか」

「まあ、ぼちぼちだな」

 高野は父親の経営する酒のディスカウントストアの支店を一店任されている。郊外に店があり、街に出て来るには一苦労であるが、店の側にマンションを借りており、遊ぶには不便だが通勤は楽だ、と言う。何度か僕も行った事があるが、雑然とした住宅街の中に、ニュッと突き出した形の十階建ての建物であり、建設にこぎ着けるまで地元ともめたらしい。そして、今そこには真代も住んでいる訳である。

 何の拍子にだか飛び出した大学時代の話題で暫く花が咲いた。学生時代、高野は顔が広い方であり、彼は僕と二人だけのユニット以外に他のユニットをいくつも持っていた。しかし、僕と一緒にいることが多い、と彼は言っていた。

『お前から啓発されるものは多いよ』

 いつか高野から真顔で聞かされたことがあった。別に教師面して何かを教えたつもりはなかった筈だが、彼が言うには『お前の考えることは今まで俺が出会った奴らの中にはない、どちらかというと異常なタイプなので、それも俺と正反対な異常さだから、釣り合いがとれる』とのことだった。

 僕にとっても同じ事が言えた。社交的というか、どこかに顔を出し、アンテナを張っておいて、何か面白いものがあれば飛びついて味わってみたい、という好奇心の塊のような高野は、自己の内面に沈潜したがる僕と正反対であり、自分をニュートラルな位置に戻すにはうってつけの存在であった。

「お陰で痛い目にも遭った」

 僕は二杯目のジン・トニックに口を付けながら言った。高野はクアーズを二本既に空けてしまい、バーボンのロックに変えていた。

「そう言うな。お前だって嫌いじゃなかったから俺と一緒に行動したわけだろう。自業自 得というやつだ」

 確かにそう言うこともあった。しかし、僕は常に自制が働くため、途中でストップをかけやめてしまうが、高野がそのまま突き進んで行く事を横から眺める、ということが多かった(高野が大成功し、僕が横で指をくわえる事もあったし、高野が大失敗し、僕が大笑いする事もあった)。

「総じて俺の方が動きは鈍かったよ。従って責任はお前がとるべきだったんだ、過去の失 敗についてはな」

 僕は笑いながら言った。少し酔いが回っているようだった。

「そうかも知れない。お前はいつも、俺のブレーキ役だった。でも、おれが側にいなくなった時、お前は動かなくなってしまい周囲を惑わせてしまった訳だ…判るか、俺の言う事が」

 高野が真顔になって言った。僕は判らないと答えた。

「真代との事だ」そう言って高野はタバコに火を点けた。

「……あれから、お前真代と何か話をしたか」

「いや、していない。するべきではないんじゃないか」

 高野は大きくかぶりを振った。少し酔いが回っているようだった。

「それだよ、お前の悪いところは。別にいいじゃないか。変に倫理観持ち出すなよ、今更。 たとえ別れたと言っても嫌いになって別れた訳じゃない女に、別れた後『元気か?』の 一言を与えることが、男の優しさ・度量の広さだ」

「度量の広さなどどうでも良い。あいつに対して必要なものじゃあないからな」

 また高野は大きくかぶりを振った。

「実に論理的な奴だ。だが、まあいい。どうだ、一度話をしてやってくれないか」

「何かあったのか」

 高野はタバコを大きく一口吸って、煙を吐き出した。まるで自分を落ち着かせるように見えた。

「後悔、とは違う何かがあって、真代の心に整理が着いていないみたいだ。お前何か別れる前に何か変な事でも言ったのか」

「別に、言った覚えはないよ」

「そうか……とにかく、今暫く真代を頼むぜ」

 自分の恋人を故意ではないにしろ奪い取った男からこんな事を頼まれるというのも妙な話であるが、相手が高野でないととても理解できないと思う。

 僕は少し考えてみた。どうやら真代にとって一時的な心の移ろいというやつではなさそうな気がした。

「判った。一度話でもしてみよう。それで解決できるかどうかは判らないが」

 僕がそう言うと、高野はゆっくりと頷いた。

「ところで」

「何だ」僕は訊ねた。

「恨んでないのか」高野が赤い顔を向けて言った。

「何を、今更」

 僕はそう答えた。少し虚勢を張っていたのかも知れない。




「はい、今晩は『ミュージック・フロム・ミー・トゥー・ユー』の時間となりました。 月曜日の担当、真代です」

 FMラジオから夜十一時の時報の後、真代の声が聞こえてきた。この春から真代が毎週月曜日に担当している番組である。真代と一緒に暮らしていた頃は、家にいるときには割と聞いていた方だったが、別れてからは初めて聴く事となった。

 電波に流れるときの真代の声は少し鼻にかかった、聞く人によればわざとらしい感じも与えるらしいが、今こうして聴いてみると、抑揚といいテンポといい以前と比べて特に変わったところはないように思われた。

 僕はリビングのソファに座り、先程真代の部屋から拾い上げた手紙をテーブルに置いて、少し迷っていた。

 高野の話からすると、この手紙の中に真代が僕に求めようとしていた何かが書かれているように思われたからだ。

 開封して、アクションを取るべきかどうか。それともこのまま処分してしまうべきなのか。

 今更真代の心に応えるものはないと考えていた。有里に再会したことが、今、迷わせる原因であると言えなくもなかった。

 結局、僕は手紙を取り上げた。封を開き、中から灰色がかった一枚の便箋を抜き出し、十数行程度書かれた文章に目を落とした。こう書かれてあった。

『今までありがとう。

 変な譬えだけど、私にとってあなたは座り心地のいいソファーのような存在だったと思います。

 でも、あまりに座り心地が良すぎて、そこがソファーの上だという事に気づかなかった のかも知れません。

 あなたの方では私をどんな風に支えてくれていたのでしょうか?

 私がとても知りたかったのはこの事でした。

 でも、結局判らないまま、お別れすることとなりました。心残りです(自分から別れを言いだしておいてこんな事を言うのは身勝手だけど)。

 機会があれば、それを教えて下さい。

 では、また』

 ブルー・ブラックの万年筆で一字一字丁寧に書いたその字は、普段の真代の字と少し違って見えた。内容自体とても真代が書いたとは思えないほど、妙にしとやかなものだった。

 僕は手紙を封筒に戻し、テーブルの上に置いた。ラジオでは、真代の声が続いていた。彼女の手紙を読みながら、全く別の魂で喋っている彼女の声を聴くことはとても妙な感じがした。

 僕が気づいていた事は、真代にも伝わっていた訳である。

 僕は自分の愛情表現が稚拙なのかと疑ってみた。多分、人を愛することが下手なんだろう。でもそれだけではないとも思う。

 自問自答しながら、僕はある事に気づき始めた。

 僕が真代を愛していたと思っていたこと自体が、偽りであったのではないか、という事に。僕は真代を愛していると思うように演じていたと言ってもいい。しかもそれは、真代と一緒になってからの事ではなく、真代と出会う前からだったのではないかと。そして、真代が僕の前から去って行った時、何も悲しくなかったのは、もはや演じなくてもいいという安堵感、というよりも、もう演じないぞという僕の決意がそうさせたのではないかと。

 僕は『かりそめの自分』で僕が出来上がっていることに気づき始めていた。

 会社に融合し、『会社員としての僕』に変容しつつある自分にはとっくに気づいていた。だからといって、会社生活だけが僕に何かを演じさせようとする起動力ではなく、僕は何か別の起動力によっても他の何かを演じさせられているのではないのかと気づいた。

 そして僕は無意識の裡に、あらゆる起動力を停止させ、演ずることから逃れようとしていたのである。

『自由になりたい』僕はそう考え始めていた。

 真代はまだ喋り続けていた。手紙の存在と、その内容に心惑っていた数瞬前の自分の気持ちがまるで遠い過去の出来事のように色褪せていた。真代の声もどこか見知らぬ世界から伝わって来るかのようだった。




 あのT美術館の日以後再び雨の日が続いていたが、今日は朝から太陽の姿を仰ぐことが出来た。梅雨明けにはまだ十日ばかり必要であったが、まるで夏の到来を感じさせる暑い一日であった。

 休日明けの重苦しい一日を終え、夕方とは言っても、まだ随分明るい初夏の街に僕は出た。いつも向かうターミナル駅とは逆方向に向かっていた。僕は有里と会う約束をしていた。

 T美術館で貰った名刺に書かれた電話番号をダイヤルする時、少し緊張していたが、彼女が出るとその緊張はすぐにほぐれ、会いたい旨を伝え、了解を取ることが出来た。今の僕は、別れの時の印象が強く残っている故か、有里に対して引け目を感じているようだった。

 約束の喫茶店に入り、コーヒーを注文した。

 窓の外を見ると足早に帰途に着こうとする男女の群が見えた。皆それぞれに生きており、それぞれの役目を演じているらしかった。この中の何人が自分の演技に気づいているのだろうか、と思った。

 やがてこの男女の群の中から有里の姿が見つかり、喫茶店の中に入ってきた。僕は彼女に向かって軽く手を上げると、気づいたらしく笑いながら僕の方へやってきた。


「演じるという表現がおかしいのじゃないかしら」

 先日来の僕の考えを述べた後、有里がそう言った。

「誰しも生まれてきていきなり大人の自分である訳がないのだから、みんな自分というものを作り上げてきたのであって、演じる、という一時的なものではないんじゃないかしら」

「そう、確かに作り上げて来た事に間違いはないんだけれど、問題はその作り上げるためのきっかけじゃないのかな」

「きっかけ?」

「そう、きっかけ。もしくは、起動力」

「起動力……」

「何のために、何の故で今の自分を作り上げようとしたか、ということに問題があると思う。そしてその起動力によっては演じると言うべきだと思うな」

「それは、自分の意志によってよ。なりたくもないものになろうなんて思わないわよ」

「そこに、偽りが入り込んでいると思うんだよ、僕は」

 有里は納得いかない表情で訊いてきた。

「じゃあ、一般的に人はどういう起動力に導かれているのかしら」

「端的に言えば本当の自分の意志以外のもの、だと思う」

「それじゃあ答になっていないわ」

「つまり、他人の考え、意志が自分の純粋な魂に悪影響を及ぼしてきているんだよ」

 僕は上手く答えられない自分にもどかしさを感じていた。

「ちょっと待って。人は周りから様々な影響を受けて成長していくのよ。その中のいくつかは自分にとって悪影響を与える場合があるかも知れないけれど、どれかが起動力になる事だってあるわ。そしてそれは必然であり、そうやって人は何かになっていくのよ」
 有里の言うことはもっともだと思われる考えだった。しかし僕はそれを否定したいのである。

「人のはそれぞれその人が到達すべき道を生まれついて持っているんではないかと思う。 そしてその道に目覚める前に他の者の意志によって、正しくない起動力が発動されてしまうことが多いのではないか。いやそれが殆どの場合なのではないか」

「それは、正しいかも知れない。でも、正しくない起動力だからといって、それを演じていると感じるのかしら、正しい起動力に気づかないまま終わってしまうんじゃないかしら」

「何人かは気づいていると思うよ」

「……そう、あなたは気づいてしまった訳ね」

「漸くにしてね」

「いい傾向ね」有里はにっこりと微笑んで言った。「……それであなたはどうするつもりなの?」

 僕は少し間をおき、再び窓外に目をやった。

 演じる事を否定し、真の自分になること。

 では真の自分とは何なのか。考えは当然、そこに到る。僕はぼんやり窓外を見やっていた。答える言葉を探していたんだと思う。



  八


 夜。

 一日に昼と夜の正反対の表情がある。その表情に合わせるかのように人の魂も昼と夜の二面性を有している。また、昼の自分はパブリックな自分であり、夜の自分はプライベートな自分である。人は二面性の中でバランスをとりつつ生きている。意識的にか、それとも無意識的にか判らないが。

 夕方より雷雨となり暫く激しい降りが続いていたが漸く雨が上がり、少し蒸し暑かった。僕はエアコンを入れた方が良いのか、それとも窓を開けた方が良いのか少し迷ったが、結局窓を開くことにし、ソファから立ち上がった。窓の外は木々から滴り落ちる雨水の音が聞こえ、雷雨というショーの幕引きを行っている感じだった。湿った空気が窓から流れ込み僕の身体を通り抜けていった。すこし蒸し暑さはおさまったようだった。レースのカーテンを引いて、僕はソファに戻り、再び考えていた。

 僕は何かをなさねばならない自分に気が付いてしまっていた。

 もう今のままの自分ではいられない。

 今の自分を捨て去りたい。

 会社員として組織に精神も肉体も侵食されつつある自分を。そして真代を愛しているかのごとく演じていた自分を。

 かりそめの自分に気付いて以来、僕の心は本当の自分目掛けて走り出したい気持ちで充満していた。しかし、その先は今、見えていない。

 真の自分を見出したい。

 しかし、その真の自分とは何なのか。

 一般的に人は自己実現の道を職業に求めようとする。僕もそうだと思っていた。しかし、それに疑問を抱いて以来、自己実現の方途が見えなくなってしまった。

 幼い頃の夢を思い返していた。しかし、それは単なる憧憬に過ぎず、今の自分の心を埋めるものにはなり得なかった。そして今の僕は夢というものを持ち合わしていなかったのであった。

 何もしたいものを持ち合わせていないのである。何か他の職業で自らを活かす道はないものかと考えてみた。しかし、そのどれもが不愉快なものであった。僕の裡に労働は美徳という認識が欠落しているのかも知れない。

 ただ言えることは、今の自分から脱却し、自由になりたいということだけのようであった。単なる甘えなのだろうか。ただ自分の思い通りにならない人生にゴネているだけなのだろうか。いや、少し違う気がする。

 また雨が降り出して来た。少し強く葉々を叩く雨音が窓からリアルに届いて来て、瞬間考えを中断させられた。

 この点について有里は僕と大いに異なっていた。大学時代の夢に向かって邁進し、自分の手によって切り拓いて行き、そしてそれなりの満足を得ているようだった。

 僕には少し不思議に思えた。

 昔から僕は傍観者を決め込む癖があった。時代の流れ、と言う大きな川を岸辺に佇んでぼんやり見つめている、といった風に、川の流れに飛び込めず、またそれほどの興味を示すことも出来ずにいることが多かった。

 幼い頃からのニヒリズムのせいかも知れなかった。川の流れに溺れないように懸命に泳ぐ姿が虚しいものに見えていた。本当に泳ぎたいから泳いでいるようには見えなかったからだ。でも人は泳いでいた。泳ぎ着く先がどうなっているのか、全く分からなくても、とにかく、泳いでいた。僕にはとても真似のできる行為ではなかった。

 だから有里の行動についても賞賛はしても、同調しにくいものも感じていた。

 真代に対しても同じだったのかも知れない。今はアナウンサーがメインになってしまっているが、本当は女優を目指している、といつも言っていた。

 有里も真代も、他聞本当の自分を見つけ、それに従って生きて来られたのだと思う。他の機動力は発動しなかったように思う。

 ふと思う。

 有里は彼女自身のライフスタイルにそぐわない僕に嫌気が差したのではなかったろうかと。有里は僕に同じライフスタイルを、何かの目標に向かって行動する姿を求めていたのではなかったか。僕との初めての出会いの時、彼女は彼女自身のライフスタイルにシンクロする相手だと思ってくれていたのかも知れなかった。

 真代は正反対の僕に安らぎを求めていたのだと思う。しかし、僕は真実の僕を求め始めていたため、真代の願い通りにはいかなくなってしまった。

 ともかく、僕は自分が飛び込まねばならない川を見つけねば、と思う。しかし、思う先から別な声が、それは虚しい事、と囁いてもいる。今の自分が演じ続ける事の方が楽だぞ、とも。

 僕は、頭を振った。



  九


 電話が鳴った。

 浅い眠りの故か、何か音がしたと思い、跳ね起きたが、それが目覚し時計のベルか玄関のチャイムか、電話の呼び出し音か、判然としなかった。音のけたたましさと、正体の判らぬ不安が数秒心を圧し、やがて電話が鳴っていることに気が付いた。

 受話器を取りながら、ステレオのデジタル時計に目をやった。土曜日の午前七時三十分だった。

 電話の相手は高野だった。

「やっぱり寝てたか」

 僕はコードを伸ばして電話機を居間のソファに運び、座り込んだ。

「ああ……休日だからな」

「済まなかった……調子はどうだ」

「眠い」

 僕はそう言いながら右手で顎をさすった。

「そう言うな、こちらは仕事中なんだから同情してくれよ」

「こんな朝早く、何の用だ」

「俺にとっては朝早いとは思わないが。その後、例の件はどうなったかと思って。会いたいんだ」

 真代の一件を思い出した。僕は気が乗らなかった。

「……進展していないよ」

「じゃあ、何か変わった事はないか」

 手紙の内容で、真代の心理状態はほぼ理解出来ていたが、高野に伝えるべきかどうか良く判らなかった。

「少し思いついた事はあるが……」

「そうか、教えてくれないか」

「気が進まないな」

「そう言うな。こちらを助けると思って」

 妙に高野は執拗である。

「判ったよ。何処で会う」

「それが申し訳ないんだが、俺は仕事で忙しくてな……ウチに来てくれないか。もちろん真代は仕事でいない」

 人に頼み事をしておきながら勝手な奴だと思ったが、僕は了解した。

 多分、手紙の一見は高野に喋る事になるだろう。そうすると、僕の今の考えについて高野に語る事になるとも思う。彼の意見を聞いてみたい、とも思った。彼は余り僕のように深く考えて行動するタイプではないため何か別の意見を持っていると考えられた。

 あるいは彼から宥めてもらいたかったのかも知れない。


 私鉄で一度中心街に出て、ターミナル駅で別の路線に乗り換え、郊外に向かう。漸く西日本では梅雨が明け、この地方ももうじき明けそうであり、ここ二、三日は好天が続いており、もう夏の息吹が感じられていた。そろそろ夜を迎えようかという今の時間帯、電車の中はエアコンが余り効いていないため、蒸し暑かった。

 車内はそれほど混雑していなかったが、家に帰ろうとする人々が少し疲れた表情を浮かべながら、各々自分の心に凭れかかっていた。

 例えばこの中の誰かと人生を交換できると面白いかも知れないと思った。これまでの人生はそのままにして、これからの人生を交換する。もちろん、僕にとって幸いと感じられる人生と交換する。僕より人生が充実している人と交換してみたらどうだろうか。果たして僕にとって快か不快か。多分、今の僕にとってどんな人生も不快なものではないか、とも思ってしまう。

『皆、自己の人生の中でもがいているのだろうか』

 心の中で呟いてみる。そんな事はないだろう。僕だけなのかも知れない。損な人生なのかも知れない、と思う。

 やがて電車は高野と真代の住む街の駅に到着した。住宅地ということもあり、かなり沢山の乗客が押し合いながら降りた。


「手紙?」

「ああ、引越しの日、出発する直前に渡されたんだがな」

 僕と高野はリビング・ダイニングのテーブルに向かい合って座っている。中央のテーブルに彼の店から持ってきた国産のビールとつまみを並べ、二人で飲んでいる。

 僕は素っ気ない表情で手紙を渡された事を高野に伝えた。

「どういう内容だったんだ」

 高野が身を乗り出して訊いてきた。

 僕は手紙の内容についてかいつまんで説明した真代は僕の愛に疑問を抱いていた、という事について。

「成程」

 高野は呟くように言って、口を閉ざした。

「真代が疑問を抱く気持ちも今となっては判らなくもないが、答える必要もないんじゃないか、と思ってる」

「どうしてだ」

「今更、仕様のない事だ」

 高野はビールを飲み干した。

「おい、なんとかその件について真代が納得するような返事をしてやってくれないか。確かに今更、という気持ちも判らなくはないが……俺も困る」

 何らかな返答は勿論可能だが、真代を納得させ、高野の望みが叶うように、と言う訳にはいかない。

「判ってしまったんだよ」

 僕は両手を組んで、前屈みになって言った。

「真代の事を愛していなかった事に……というべきか、それとも、愛しているふりをしていた、と言うべきなのかも知れないが」

「本当か?そんな風には見えなかったが」

「つまり、演じていた」

「演じていた?」

「そうだ」

 それから僕は自分の考えについて、有里に話した通りの事を延べた。高野は俯いていた。

「それでどうするんだ」

 高野が顔を上げ訊いてきた。高野がこう訊いてくる事は予想していた。

「まだ判らない。しかし、自由になりたいだけなんだ」

「お前の気持ちは判らなくもないが、反社会的だな。もう一つ掘り下げて考えてみろよ。お前が演じていると感じ、本当の自分が別にある事に気づいた事が、またも偽りであって、今、現にあるお前は、実は本当のお前なんじゃないか。人間、そうそう演じてもいられまい。結局、落ち着く所に落ち着く筈だ。その年齢からすれば、今のお前は落ち着く所にいるんじゃないのか。そしてそれが本当のお前であり、その姿を追求する事が社会的に正しいあり方だと思うんだが」

 高野は大人だった僕よりも、また有里よりも。

「その考え方は肌に合わない気がする。だから、間違っていると思うが」

 僕は否定した。

「自分が帰属している全てのものから逃れていきたいと考えるのはいいが、生きて行くと言う事は何かに干渉を受け、帰属させられると言う事なのだから、そのままだと矛盾を背負う事になる。どうだ」

 高野が言った。

「いや自由になりたいという気持ちは過渡的なものであり、その次には自分のなるべきものになりたいとする考えが待っている」

「成程、自由を得、しかる後、真の自分を見つけようという訳か」

「そういう事だ」

「自由を得るという事は様々な帰属から抜け出すという事らしいが、お前にとって最大の帰属先は会社だろう」

「ああ」

「会社という帰属から抜け出すという事は、ひとまず労働を否定する事になる訳だなしかし、労働を否定したままでは生きていけまい」

「しかし、真の自分に合致する職業を見つけられれば良い訳だと思うが」

「そいつは至難だな。世の中の人は自分の望まない世の中であったとしてもそれに折り合いをつけて生きているんだ。そしてその中で自分を再発見しているんだ。職業についても同じ事だ。どこかで折り合いをつけねばならない」

 そう言って高野はまたビールをあけ、一口飲んだ。

「愛もそうじゃないのか」

 僕は顔を上げた。

「愛は偶然の出会いによる産物であり、与えられた愛に自らを合致させてゆくしかないのではないか。与えられたものではなく、自ら完全な相手を探し出し、作り上げてゆく愛は存在しない。いつだって愛は不完全なものさ。それに合致させてゆくしかないんだよ。もし合致できなければ、別れるしかないんだよ」

 僕は黙って聞いていた。

「人生というのは偶然の積み重ねで形成されている、と考えるしかないと思う。必然が形成する事はない。もし必然を見つけたいと考えるなら、何万人もの人生を生きねばならない。そんな事は出来やしないさ。そして、偶然を嫌悪し続けると人生が苦痛で仕方なくなるぞ」

「苦痛」

「そう思わないか」

 確かにそうだった。僕は苦痛を感じていた。迷路を辿り始めていた。

「真代は、そんなお前の状態を感じ取れなかったんだな」

「きっとそうだと思う」

 僕がそう言うと、高野はこっちにビールを差し出した。

「判ったよ。今更、真代には何とも答えようはないな」

「そういう訳だ」

 高野はまた一口、ビールをあおった。

「しかし、どうにかしなければいかんな、お前の方は」

「その通りだ」

 僕は静かに答えた。


  十


 NO WAY OUT.

 僕は会社の休憩室の片隅でコーヒーを飲みながら考えていた。

 休憩室には僕以外、誰もいなかった。休憩室とはいうもののここは基本的には昼休みなどの休憩時間を過ごす場所ではなくて、考えを整理するなり、まとめるなりするときに利用する場所として設置されていた。

 二十畳程度のスペースに厚手のカーペットが敷かれ、幾つかの布張りのソファとテーブルが無造作に並べられている。空調はよく効いており、BGMが流れ、実に落ち着く部屋だと感じるが、ここは地下一階であり、窓がないため、閉じ込められた、と感じるものもいるにはいた。

 僕も普段は余り利用しなかったが、今日の気分には実に適した場所だった。

 本格的に迷路に入り込んでしまった。そして出口が見当たらなかった。

 何か糸口を見つけるべきであった。それも早いうちに。このままでは生きていくこと自体、虚しいものになってゆくだろう。僕は行動を起こす必要があった。有里や高野が問いかけた通り、僕はどうかしなければならないのである。

 出口になるかどうかはっきりしていなかったが、行動のきっかけになることの一つとしてある考えをもっていた。

 会社を辞めようと考えていた。

 既に気付いているとおり、僕は会社生活によって自分を規定し、帰属させられていた。自ら望んだ型ではないが、とにかく僕は『会社員としての僕』となっている。会社を辞める事でこの桎梏から逃れることが可能になる。しかし、それは一つの逃避に過ぎず、僕を僕たらしめるものにはまだならない、と思っていた。

 会社を辞める事は簡単なことだと思う。勿論、辞めた後のことは考えに入れていなかったが。退職願を提出する。上司が(多分)思いとどまるよう説得する。しかし、躊躇せず意志の固いところをみせる。上司は諦め、退職願を受理する。あとは事務手続きが行われ、僕は引き継ぎ業務を行う。同期の友人が声を掛けてくる。羨んでいる者、蔑む者。やがて退職日が来る。僕は挨拶する。そして社を離れる。

 問題は辞めてから、であった。やりたいことが見つからない僕にとって、会社を辞めてからの生活は虚無の日々になりかねなかった。それを踏み越える何かが果たして掴めるのだろうか。

 僕はタバコに火を点け、深く煙を吸い込んだ。

 先々の事を考えていては、何も見えてこない。とにかく、ひとつ行動してみることだ、そう思った。

 『会社員としての僕』から逃れ、まず一つ自由を勝ち取る事。そして、どれだけ巡り会えるか判らないが、様々な選択肢を探し出し、そのうちの一つを自ら選ぼう。偶然の人生ではなく、必然の人生のために。

 そこまで考えて、ふと我に返った。

 かりそめとは言いながら、これまでよって立って来たこの位置から離れる事は、一つの恐怖を呼び覚ますことになりはしまいか。真の自分にとって、今の位置は安住の地なのではないか。

 僕はかなり不安になった。

 人は必ずどこかに帰属していないと生きていけない。何かで読んだことがあった。僕は一つの大きな帰属から離れようとしている。ひょっとすると僕の魂は耐え切れないかも知れない。

 真の自分を指向しながら帰属という重力に囚われてしまっているのではないか。

 僕はぼんやりとタバコの火を見つめていた。

『要するに決意の強さだけだ』

『とにかく行動を起こすことだ』

 僕はタバコの火を灰皿に押し付けて消した。


 再会してから二度目の電話であった。

 前回のときのような緊張感はもうなく、自然にダイヤルすることが出来た。

 夜十時を回っていた。多分、有里は出てくれるだろうと思った。呼び出し音が三回続き、四回目でつながった。

「もしもし」

「もしもし、僕です」

「ああ、今晩は」

「遅かったかな、掛ける時間としては」

「ううん、何かしら」

 何か音がする。おそらく電話機を持って移動する音だろう。

「会社を辞めてみようかと思うんだ」

 僕はあっさり言った。半ば有里の気持ちを確かめるつもりでもあった。

「行動する訳ね、あなたも」

「そういう事になるかな」

 有里は僕の行動に期待していた感じだった。僕の思っていた通りだった。

「あなたは見つけるもの、見つけねばならないものがあってそこに向かって行くことになると思うわ」

「しかし、この前に一つ乗り越えねばならない問題に気が付いた」

「何かしら、問題って」

「僕は今までの自分に帰属してきている。この帰属から逃れることに、果たして僕が耐えられうるかどうか、という事」

 少し沈黙があった。が、すぐに有里は応えた。

「それについては私はうまくコメントできない。強いて言うなら新しい帰属すべき先を見つけ出すことしか解決策はないと思うわ。それまで我慢できるかしら」

「判らない。でも、そうしないと、本当の自分は見つからない」

「頑張って欲しいわね」

「ありがとう。そのつもりだ」

「会社辞めたらまた連絡頂戴」

 僕は了解し、電話を切った。



  十一


「さて、次の曲に入る前にお手紙を紹介したいと思います。S区にお住まいの匿名希望さんより、別れたMさんへ『出しそびれた返事』と題して、リクエストともに届きました。少し長いですがご紹介します」

『前略 手紙読ませてもらいました。読むまでに随分時間が掛かってしまいました。

 君が去ってしまったあと、部屋はあのままにしています。折角、ひと部屋空いたのだから有効に使えば良いとも思いますが、もう少ししたらこのアパートも出ることになるため、暫くこのままにしておきたいと思います。

 君が去って扉ばかり見て暮らしていました。扉を見続けた故か、僕には君がいなくなった事よりも、もっと別な事に気が付いてしまいました。これが、君の手紙に対する返事になるのだけれど。

 僕は君を愛そうと努めていた訳で、本当に愛していた訳ではなかったようです。これは君の故ではありません。僕のこれまでの人生がそうさせてしまった訳なのです。君には寂しい思いをさせてしまったかも知れませんが、君の心に応えられるものはなかったようです。

 僕を動かす力、というものが周りにあり、僕はその力によって僕本来の姿を歪められてしまっていたのです。歪められていた僕自身が、君を愛すべく努力していた。しかし、元に戻ってしまった今の僕にとって、その努力は不必要なものになってしまったという事です。

 元に戻った、という事は、ニュートラルな位置に戻ったというだけであり、これからある方向目指して行かなければなりません。その決意が、あの別れの時、僕の無意識の心の裡に湧き起こっていました。

 本当に申し訳ない事になりました。

 別れを選んだことは、君なりに正しかったと思います。今となって君を非難することは出来ません。だから、僕に対しても理解して欲しいと思います。僕も僕なりに正しかったと信じているから。

 僕は気付いてしまったのです。本当の自分はもっと別な物なのだという事に。そしてそれに向かって進まねばならないのだ、という事に。

 僕は変わろうと思います。やがて再会した時、僕は以前の僕でなくなっていると思います。そうでないと君に対する行為が嘘になってしまうのだから。

 やがて僕は一つの行動を起こさねばならないと思ったからです。理解してもらえると嬉しいのですが。

 それでは、お身体大切に。また逢う日まで』

「うーん、何だかとっても深刻そうなお話でしたが、Mさんにはうまく伝わったでしょうか。Fさんは何か変わろうとしているようですね。当時のMさんにはきっと理解出来なかったのでしょうね。人の心の中というものは恋人同士でも判らないことが多いものですから。でも、変わろうとしているFさんには拍手を送りたいと思いますね。詳しいことは良く判らないけれどもMさんも応援しているのではないでしょうか。

 それではリクエスト曲をお掛けしたいと思います。ザ・ビートルズ『NOWHERE MAN』です」

 真代の声が切れ、曲が流れてきた。

 僕の気持ちはうまく伝わったのだろうか。僕からの手紙であることは判っている筈だった。あの真代のコメントは放送用にうまくまとめたものだと思うが、実際のところどうなのだろうか。

 僕は結局、この歌のように「行き場のない男」になるかも知れなかった。空想の国に閉じこもろうとしているのかも知れなかった。何処へ行くあてもなく、見たくないものに目をそむけ、見たいものしか見ようとしていなかった。

 テーブル上の「退職願」と書かれた封筒に目を落とした。明日、僕はこれを上司に提出しようと思っている。

 外は夜の帳が下りていた。蒸し暑い夜であったが、もう雨は上がっていた。

完  

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