平穏な日々を


6月に入って湿度の高い日が続くようになった。
4月に新しい年度が始まり、講義も中盤にさしかかり、またそれぞれのこどもたちの新しい学年に対応する生活も2か月経過したところである。日本にいるときは例年この時期に体調を崩してしまうのだが、今年ももれなく体調を崩し、またさらには精神的に重ぐるしい。

原因はわかっている。
数年前、わたしの、わたしたちの人生は一変してしまった。
いま直近の問題が解決したとしても、おそらく一生不安となにがしかの重苦しさを感じながら一生を終えていくのだろうと思う。
悲しみ、ひたすら深い悲しみと怒りと憤りとが波のように繰り返し繰り返し押し寄せ、そして最後は疲れ果ててあきらめて思考を、感情を放棄する。

今日も眠れなかった

疲れ果てて小さなコンピュータの画面をみれば、承認要求の高い人々のうららかなあかるき様相が展開されている。それらをみるにつけ、いや人生とはそんな毎日明るく楽しいものではなかろう、とひとりごち。そしてどうしてこの人たちはこんなにも闇を、暗やみを恐れるのであろうか、なぜこんなにも光ばかりをみせるのであろうか、とぼんやり思う。おそらくなにか自分が特別な人であることを保証されたいのであろうか、自分が他人から承認されることで自己の人生が「正しい」との答えをもらいたいのだろうかなど邪推する。

誰もが不安で、誰かに認められたくて、さみしい思いを多かれ少なかれ抱えているだろう。私はそうした思いをまったくなかったかのように扱うのは、不誠実だと思うのだが、それは公開されるネット空間ではそぐわないのだろうか。

世の中には口には出さないし、表現すらしないけれども日々なんらかの苦しみを抱え、またやるせない思いを抱え、なんとかしたいと思いつつも気力が伴わず、ただただ大きな流れにながされまいと足を踏ん張り、しかし流され、流れ着いたところで、ああまた変わらぬ状況にたどり着いてしまった、と嘆息する人がたくさんいる、と私は思う。人生はたくさんの苦しみがあり、その中でふとした喜びがあり、それを愛おしく大切に思う。それら泥沼から咲き立ち上がる一輪の蓮の花のような清らかなささやかな喜びを、世に公表していくにはもったいない、大切に胸にしまいつつましやかに生きる人々がいるだろう。そうした人々の存在をあたかもないかのようにはしたくない。だから私は、ネットの空間でも暗い闇をみつめ、その心の様を記録し、そして公開していこうと思う。

わたしにとって書くことは救いになるから。


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