伝承の日本史15 〜 ミマキイリヒコ、豊玉姫と海幸山幸の話

物部本家は筑後平野に住んでいた。
呉の襲来を恐れてのことか。(沖縄と九州攻略策が伝えられていたから)232年ごろ、物部王国の御真木入彦(ミマキイリヒコ)という王が第2次物部東征を企てた。
東九州で兵力を蓄え、東征へ。
肥前国風土記の記述は
「肥前と肥後の国はもともと一つだった。
むかし、磯城の瑞籬(みずがき)の宮で天下を治めた御真木入彦のスメラミコトの時代、肥後国益城(ましき)郡朝来名(あさくな)に土蜘蛛のウチサルとウナサルがいた、大王の命を拒み服従しなかったので、朝廷は肥君らの祖先・健緒組を遣わして征伐、反逆者を完全に滅ぼした。八代郡の白髪山氏周辺で大空に火の塊があり、燃え落ちて、この山に届いて燃えたのをタケオ組は見て不思議に思った」

タケオ組とは、現在の武雄市の豪族「組=軍団」だった。
記紀に反することは書けないから、「ミマキイリヒコ王の時代の話」としている。


ミマキイリヒコ王は薩摩・笠沙の岬でアタ(南さつま市)の豪族・竹屋守の娘アタツ姫と出会い、妃に迎えた。
この史実を記紀は神話にした。
「ホホデミは、大山祗神に対し娘のコノハナサクヤを妃にしたいと申し出たが、磐長姫も一緒にと言われ、、、」のくだり。

ミマキイリヒコは大隅半島を周り、都万国の大淀川河口に上陸。当時の日向国宮崎付近のこと。

『三国志』魏書に書かれる「伊都国」は糸島、「奴国」は那の津、「不弥(フミ)国」は筑前国、穂波、「投馬国」とは都万国の中国式表記。


第一次物部東征の際、巫女のいない物部勢力は磯城王朝の三輪山の姫巫女の権威に太刀打ちできず、結果、ヤマトの民衆に支持されなかったため、磯城王朝に飲み込まれた。
物部氏は初めは星の神・カカセオを祭ったが人気が出なかった。
九州では宇佐の月神信仰が人気があり、ウサ家のトヨ王国が形成されたいた。
そこで、月神信仰を担いでヤマト入りし、今度こそヤマト民衆を引きつけようとした。

まず都万国に都を作り、のちに豊国勢力と連合する計画。大淀川右岸の生目(イクメ・宮崎市)に住んだ。

アタツ(阿多津)姫が生んだ子はイクメと名付けられた。その誕生地には生目神社が建てられている。

イクメを産んだらアタツ姫は亡くなった。(オオヤマツミ神話の通り)
アタツ姫は青島神社にコノハナサクヤの名前で祀られている。


次にミマキイリヒコは、宇佐から豊玉姫を後妻として迎えた。
この姫こそが、魏に使節を送ったヒミコのこと。

豊玉姫(ヒミコ)は、王子と王女を生む。「豊彦」と「豊姫」。

記紀の目的は、万世一系を成立させる「神話」にすることだから、史実は神話に変えられた。

豊玉姫は、龍宮の乙姫に、ミマキイリヒコは山幸彦の名前にされた。
豊彦は、乙姫が生んだウガヤフキアエズに変えられた。

しかし、どこかに史実を伝えるべく、神話の中に要素を盛り込みほのめかした。

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