動ける少数派の人、動かない大多数の人
コロナ前、神宮球場で開催される夜ヨガに参加するのが好きだった。公園やビーチなど、屋外でのヨガはとても楽しい。室内では聴くことのない鳥や虫の声、人の話し声や地面を踏む音が耳に入ってくる。空気の冷たさや太陽の眩しさ、そよ風の心地よさを味わうこともできる。
屋外の中でも、神宮球場でのヨガは格別だ。いつもは決して寝転ぶことのできない場所に、手足を投げ出して身を預けられる。見上げる客席は空っぽで、普段とは違う球場の姿をしている。小さい頃に好きだった外国の小説で、寮生活を送る少女たちが先生に隠れて夜のプールサイドでパーティをするシーンがあるのだけれど、それに似た感じがする。
そんな神宮球場のヨガで、人生の教訓とも言えるような学びを得た出来事がある。
ヨガの参加者は、先に入った人から球場の奥に歩いて行って、マットを敷いて場所取りをする。あらかじめ予約しないと参加できないため、人数の調整はされていると思うのだが、基本的には皆あまり隙間を空けず、詰めてマットを敷く。
ある日、想定以上に皆が詰めて場所を取ったのか、参加者が減ったのか、手前のスペースが明らかに空いている状態になった。一方で奥の方はぎゅうぎゅうで、手を横に広げると当たるか当たらないかぐらいの間隔。手前にいる人たちは手を広げてもかなり余裕がある間隔だったので、バランスが良くない。
そこで、会場に「手前のスペースが空いているので、奥の方もぜひ移動してきて下さい」とアナウンスが流れた。私はたまたま手前にいたのだが、いつもよりゆったりした空間だとやはり気持ちよかったので、きっと奥の人たちもこの広々した場所の方に来たいだろうなと思っていた。
しかし、結果として、殆どの人が動かなかったのだ。
人が密集して周りを気にしなくてはいけない場所より、広くて伸び伸びした場所の方がヨガに適していないだろうか?それなのに、なぜ多くの人が動かないのだろうか。
その光景を見ながら、私は静かな衝撃を受けた。
おそらく、動かなかった人たちは面倒だったのではないだろうか。あっちに行った方が良いのは分かっているけれど、今いる場所だって悪くない。球場の中は広いから歩いていくのは遠い。だったら動かない方が得ではないか?と思い、動かない道を選んだのではないだろうか。
実際には、多少遠かったとしても歩いて移動した方が良かったと思う。なぜならアナウンスがあった以上、移動している人を待たずに始めることは考えにくかったし、遠いといっても1,2分の距離だ。それぐらいのリスクを取っても、気持ちよく集中してヨガができる環境に行く方が、良い意思決定なのではないだろうか?皆、平日の夜に、わざわざヨガをしに球場に来ているのだから。
しかし、人間はいつも合理的な選択ができるわけではない。痩せたいのに期間限定のハーゲンダッツの味を試してみたくなる、明日は朝から仕事なのに楽しくて飲み過ぎてしまう、誰しも経験があるはずだ。めんどくさいから、なんとなくやりたくないから、別の選択肢の方が今の自分にとって魅力的だから。さまざまな理由で、人は最適と思われる選択を避けてしまう。
ただ、私が教訓にしたかったのは、何でも合理的に選択をした方がいいとか、意志は強い方がいいといったことではない。
その球場の中で、少数だが、混み合った場所から歩いて移動してきた人たちがいたのだ。彼らは面倒と感じなかったのだろうか?いや、おそらく感じた人もいたに違いない。
めんどくさい、やりたくないといった感情は誰にでも生まれる。それでも、最善と思われる意思決定をして実際に行動した人だけが、より良い結果を得られるのだと感じたのだ。
そんなことは当たり前じゃないかと思うかもしれないが、球場の中でたくさんの人がいる中で、実際に行動した人が少数だったことを見ると、改めて実感させられるものがあった。
今回は「ヨガを気持ちよくできるか?」という話で済んだが、命やお金、愛情など人生にとって大事なことが掛かっている場面でも、動ける人と動けない人がいるはずだ。
自分は今どちらの側にいるのか?本当に動かなくていいのか?常に問いかけ、動く人でありたいと思わされた。そんな神宮球場での経験だ。
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