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トルコ語の自動詞は受身動詞になるのかならないのか

(写真はビンテペ。無数の古墳が一杯ある、慶州とか奈良や群馬とかな感じのサーリヒの近く。)

新しく知り合ったトルコ語にとても真剣に取り組む英語のプロが、自動詞が受身動詞になるなんて本当にビックリですとおっしゃられていて、私は最初なんのことかわからなかったのです。

英語の受身の説明


大川先生のステップアップP111に、「述語が自動詞の受身からなる主語なし文」というのがありまして、「受身文は本来他動詞を用いて作る物です」と書かれています。

ですが、私はTÖMER2回目ですが、特にそういう説明はありません。
どんな動詞(受身動詞を除く)も受身を作ります。

もちろん、nesneがözneになりますから nesneがあるのは i hali がつく(動詞の前にi ı u üがくる)動詞。
でも、dan/den a/e が前に来る動詞でも普通に受身にしています。
たまに論理的に破綻する動詞 例えばakmakは使わないそうです。

TÖMERの教材にはそういう文が沢山あります。

(これらの例文は書き替えの対になっている文です。)

Halk kısa süreli panik yaşadı. 人々は少しの間パニックになりました。
 これは受身にすると

Kısa süreli panik yaşandı. 短いパニックがありました。
 このように書き換えられます。
 
yaşamakは辞書では目的語なしの動詞です。


他動詞でない動詞はどうなるのかというと 

Halk depremden korktu.
   Tümleç 補語 を取る動詞は、そのまま使って
Halk tarafından depremden korkuldu. こうなる

 i hali をとる他動詞の場合はこんな感じで

Halk depremi biliyordu.
“Halk tarafından” deprem biliniyordu.

●Eğer edilgen fiil varsa nesne yok ve nesnede –i hali yok. 受身動詞は目的語はないので、元の文(一番上の文)の –i haliはなくなる。

という感じで、どの動詞も(受身動詞でない限り)こだわりなく作れるのです。


上のは、今日はトメルの先生に質問した時の説明です。

トメルの先生も、文学部の教授なわけではない普通の先生ですから、ステップアップの論文に出てくるような難しい話はしないだけかもしれません。

しかし、ステップアップはトメルの教科書に比べると、かなり理屈っぽい、いや英語的な解釈をベースにしているのかもしれないなと感じました。
そして学習書というよりも、大川先生が人生をかけたこだわりの知見をまとめた本ととらえた方がいいのかも。よくこんなの作ったものだ。。。

普通の学習者には大事なものは他にたくさんあります。私の場合は、この言い方を使うか使わないかの方が大事です。
ステップアップの108pの例文 これが自動詞gitmekで作られる受身文。

Nasıl gidilir?  どうやって(●●へ)行きますか?

ですが、道を尋ねる時は、こっちも言えるわけです。

Nasıl gidebilirim?  私はどうやったら(●●へ)行けますか?

これらはネイティブに聞けば、50%ずつで使うといいます。
上は一般論で、下は「自分は」を強調する感じで。
自動詞でも、どんな動詞でも受身はつくれるけど、使えるか、使えないかのほうが大事なのです。


「大川先生のステップアップの後ろの方の文法について質問をするには相手を選んだ方がいい」というのを皆さんにそっとお教えいたします。大学教授とか理解できそうな人を選んで質問してね。普通の人に訊いたら間違いなく機嫌がわるくなります。

トメル中級の復習をガレノス協会プロボノでやっているのですが、今、丁度、受身 Edilgenをやっています。今週は、相互動詞+使役+受身です。(会員になれば誰でも参加できます)

4月からは、トメル初級の教科書を使って、ひたすら口を動かして、話して、聴いて、脳のウィルニッケ野にトルコ語領域を作らせる訓練みたいな初級クラスもはじまります。


追記)私の記事を読んでくれた、言語学専門のお二人の意見を加えさせていただきます。素晴らしい内容です。

1)(日本語にも)自動詞も受け身があり、被害受け身と言われることがあります。例えば、「お母さんがスーパーで赤ちゃんに泣かれた」です。日本語では、英語的な受け身文は歴史が浅く、江戸時代に西洋の論文を翻訳するために生まれたようです。それ以前は、自動詞・他動詞に関係なく、被害や損失などを表すために受け身文が用いられていたとのことです。つまり、他動詞「殴る」を用いた「サラリーマンがチンピラに殴られた」も自動詞「泣く」の「お母さんがスーパーで赤ちゃんに泣かれた」も用法上の違いはなかったようです。

2)Halk tarafından depremden korkuldu は 文法的に正解ですが、全く自然ではないんです。自然なトルコ語だとDeprem korkuttu 使役系か Halk depremden korktuなんです。トルコ語をパズルように想像したら動詞を全部受身系に変えることが可能です。例えばブログの「akmak」は 「akılmak」になれます。けれどNehir akıyor 「川が流れている」は全然 Nehir akılıyor 「川が流されている」の文法で表現されません。「akılmakはなんですか」と誰かに聞いたら、「akmakの受身系です!」と回答できる人がいないかもしれませんくらい不自然です。でもこのルールは動詞によっても違います。akmakのakılmakは不自然すぎて理解できない人がいるかもと言っても、例えばdökmek 「こぼす」のdökülmek と言う受け身かたちはよく使います。Gözyaşı dökmek 涙をこぼすGözyaşlarım döküldü 私の涙がこぼされた。O bana gözyaşı döktürdü 彼がわたしに涙をこぼさせた。Ben onun tarafından gözyaşı döktürüldüm. 私が彼に涙をこぼさせられた。トルコ語で一番不自然なかたちは「させられる」なんです。

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