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春に見つけられる

 現在私は縁あって、下記 URL の緑が丘こども園で広報のお仕事をさせて頂いています。

 こども園という場所で働くのは初めての経験ですが(仕事の内容は浅く広く、広報物のデザインや写真といったことで、だいたいいつも似たようなことをしています)、ここで出会うさまざまなものは今の私にとって、良い栄養になっていると感じます。

 園児達は私に新鮮な驚き与えてくれます。

 最初に驚いたことは、園児達が私を歓迎してくれたことです。私を見つけて笑顔を見せてくれる子、「手を繋ごう!」と手を差し出してくれる子、夕方帰る前にハグをしに来てくれる子 (君のハグが本物のハグだね!まっさらな体に生まれたそのままの気持ちで、君は私の腕の中で小動物のように丸くなる。目を瞑る。私をあっさりと信用しきった動きの淀みなさと言ったら!)  。

 最初は、何がそんなに嬉しいんだろう?私は彼等に(直接的には)何もしていないのに、これはどうしたことだろうと疑問に思っていました。ですが、彼らにとって、(私が?大人が?他者が?)ただ居るだけでいいようなのです。「存在すること」それ自体がこの場所に「存在する条件」なのです。私がどこの誰で、何を持っているのか、何をしてきたかなどは全く意味のないことなのです。

 最初は彼らの態度が理解できませんでしたし、どう接すればいいのか分からず、正直狼狽えていました。だけど、馬鹿らしいほど当たり前ですが、喜ばれてとても嬉しかった。今は、喜んでくれる彼等の気持ちを素直に受けとって、「私も君に会えて嬉しい」とただ伝えればいい。いや、必ず伝えなくてはいけない!と思っています。

 ただ一緒に居るだけで嬉しい、そしてその気持ちをそのまま伝えればいい。気持ちをもらったらしっかり受けとめる。———小さな小さな子が差し出してくれた気持ちから、私は逃げてしまいました。だけど、その後で、ものすごく後悔しました。この一瞬は二度と戻って来ないのに。でも、もう大丈夫。心を決めて、ようやく掴みとることができるようになりました!———つまり、「友達のなり方」が分かりました!

 こんなに基本的で、ものすごく大切なことを私は彼らから教えてもらいました。

 こんなこと、私はどうやらすっ飛ばして大きくなってしまったようです。例えば、靴を左右間違えずに履くとか、一口で口に入れるご飯の量はどのくらいが丁度いいとか、竹とんぼをどうやって飛ばすかとか、そういう意識しないでもできるような、息を吸うように当たり前のこと。その反復練習が必要なんだと思います。私には。

 
 彼らと接する時、それは全く新しい時間でありながら深く古い感覚に接続するものでもあります。そういうことだったのかと、過去の記憶が遡り現在の認識が大きく変わる。見ている世界がリフレッシュされていく。そんな瞬間が何度もありました。否応無く頭からザブザブ水をかけられるみたいな。今までの体がボロボロに崩されていく。ちょっと荒っぽいけど、更新された記憶は思っていたよりも感じが良くて、優しい気持ちになります。

 
 ここまで書きますと、私が出産の適齢期だから特に「子供」や「保育」というテーマに関心を持つのは当たり前だろう、と考える方もいらっしゃるかもしれませんが実はそうでもなくて、私は結婚や出産をしたいと思ったことは今までに一度もありません。考えてそういう生き方を選択している訳ではなくて、感覚として分からない、存在しない気持ちなのです。このことを、何故と聞かれても、自分でも原因はわからないので答えられません。「もったいない」と言われる元々存在していない感覚を惜しむことはできませんので、感覚を体得していく努力も特にしていません。ただ、どんな人でも持っている感覚(願望?)を持っていないということは、痛みでもあります。私だって、家族を作ってそれを繋げていくことが当たり前だと思っている、多くの人と同じ「普通」でいたいですから。結婚や出産といった出来事を見るのは居心地の悪さを感じます。

 なので、結構勇気を出してこの環境に入って行ったんですよ。(様々なご縁が背中を押してくれました)。些細なことですが、間違って捉えられたくくないなあ。

 ともあれ、そんな私でもここで子供達の成長を見る喜びに触れることができています。

 子供達は、何かあればすぐに「ママがいい。ママがいい。ママがいい。」と唱え出します。大人なんて、結局ママを奪われた喪失を埋めるために、あがいているだけかもしれませんね。ああ!何でも分かってくれて、何でもしてくれるママさえいれば世界は完璧なのに!

新樹会HP
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