noteをしばらくお休みするに当たり、今まで関わって下さった皆さんへの、謝罪と感謝の気持ちを。
私が自分の気持ちを優先して書くことで、色んな方にご迷惑をかけたり、不快な思いをさせてしまいました。
私が、ただただ未熟なために。
本当に申し訳ありませんでした。
また、今回の事に限らず…。
「自己内省のための日記のような記事」という位置づけでスタートしたnoteでしたが、閲覧していただく人が増えたことで、自分の発信が人に与えるかもしれない『影響』について、私はきちんと考慮出来ていなかったと、改めて感じました。
これまでに書いた記事についても、不快に思われた方がいたかも知れないと思い。また改めて、「発信すること」「他人への配慮」について、そして「実際の人間関係」についてもっと真摯に向き合うべきであり、私は全くと言っていい程、配慮が足りなかったと、振り返り反省する機会となりました。
その、きっかけを作って下さった方がいました。
他人ときちんと人間関係を作ることができないまま、自己中心的で我がままなまま、大人になってしまった私に。
「自分の欲を優先するために他人を犠牲にしてはいけない、もっと周りを見て、他人に配慮出来る人になりなさい。」
と、叱って下さいました。
ダメなものはダメなのだと、はっきり教えていただけたことに、今はただ、感謝の気持ちしかありません。
それを、本当にありがたいと思ったのと同時に、改めてご迷惑をおかけした皆さんに、本当に申し訳なく思いました。
自ら撒いた種で全てを燃やし、燃えつきて、何もなくなってしまった、空っぽな自分。もう皆さんに合わせる顔もなく…。
子どもの不登校や病気など、次々に訪れる厳しい現実世界。それをなかなか受け入れることができずに苦しんでいた頃。
そんな時に偶然見つけ、始めたnoteでした。
記事を書き、日々の自分の苦しい気持ちを表現することで、少しだけ肩の荷を下ろすことができました。
そして、記事をを読んで下さった皆さんの温かいコメントに、幾度となく励まされ、辛い現実を頑張っていくことが出来ました。
ただ最近は、それが行き過ぎていたのだと思います。初めてのSNS、初めてのコミュニティ。
仲間に入れてもらいたいあまり、対人スキルも持っていない状態でのめり込み、必死になり、暴走し、迷惑をかけ。
自分では気づけないほどに、いつの間にか自分は、他の誰よりも心を病んでいました。
落ち着いて振り返ってみると、周りが見えなくなる程、どうしてあんなに色々急いで焦っていたのだろうと、今となっては思います。
「地に足ついた自分」を取り戻す為に、
まず現実世界にきちんと向き合い、自分を落ち着かせることが先決だと思い、一度noteから離れようと思いました。
なぜなら私自身が、本当に意志の弱い人間なので、「依存」するものから1度しっかり離れない限り、また同じことを繰り返すと思ったからです。
まず、通知関係を全て切り、スマホの目に触れない所にnoteのアプリを沈め、完全に見えないようにして、何日も過ごしました。
正直に言うと、最初は、気になりました。
毎日楽しみにしていたnote。
でも、noteに触れない時間が増えるにつれ、それが「楽だな」と感じる自分が現れました。
自分で記事を書くのも、好きなnoterさんの記事を読むのも大好きでした。
でも、いくら好きだからと言って、寝る時間も削って毎回6.7千字の記事を書くことは、予想以上に自分の負担になっていたという事に、改めて気づき。
また、スキをつけてくださった方にお礼をと、スキを返しに記事を見に行くことに関しても。
スキが少ない、最初の頃は良かったのですが、その数が増えるにつれ、「相手の記事をきちんと読んだ上」で、お返しのスキをつけにいく…。
それすらもたくさんの時間が必要になってきて、そちらも睡眠時間を削らないといけないほどの負担になっていました。
誰に言われたわけではないのに、「ちゃんとしなければ」と、自分で自分にルールを課し、それを守らなければと思う余り、時間の管理がきちんと出来なくなっていることにさえ、気づかずにいたのです。
その、全てから一旦解放されたことで。
自分でも驚く程、心が穏やかになりました。
自分の感情を制御出来ず、まるで荒れ狂う嵐のようだった、私の心。
noteから距離をとることで、少しずつ少しずつ、落ち着きを取り戻していきました。
いつの間にか、おざなりになっていた身近な現実。その日常を改めて丁寧に過ごしていく中で、もうnoteという世界に戻らない、戻れないこともありえるのだろう、でも、それももう、どちらでもいいのかも知れない、と思うようにもなりました。
そんな中で、最後に思い残すことは、本当にないのか。自分の中できちんとけじめをつけなければ、先に進めないのではないか。
そう考えた時に思い浮かんだのは、
noteでお世話になった方々に、きちんと謝罪と感謝の気持ちを伝えること
下書きに残したままの記事を全て上げ、終わらせてしまうこと
この、2つでした。
私は本当に意志の弱い人間なので、未練を残したままでは、きっと再びnoteという世界にのめり込み、また同じ過ちを繰り返してしまうだろうと思ったのです。
そうならないためにも、1度きちんと区切りをつけようと、この記事を書くことを決めました。
最後の発信になるかもしれない記事。
書く前に、自分に約束しました。
きちんと、毎日のやるべきことを終わらせてから、余った時間で書くこと。
睡眠時間を削ったりせず、体調を崩すようなやり方はしないこと。
なんだか小学生の夏休みの約束みたいだな、と苦笑いしながら。そして、自分は本当に、最後の最後まで、我儘な人間なのだな、と思いながら。
できるだけ、心の中の、海の波が「凪」の状態で書こう、と決めて。
少しずつ、少しずつ。
この記事を、書き上げました。
*******
どうしていつも、同じ過ちを繰り返してしまうのか。ゆっくりと、過去を振り返りました。
以前、こんな記事を書いたことがありました。
これは当時の私の中の、紛れもない本心で。
文中の( )の言葉をかける存在は、「私は私しか、愛せないのだ」ということに気がつき絶望した、小6の頃からずっと、私の心の中に住み着いていました。
そしてその後の人生において、どんなに辛いと感じることがあっても、( )の声はいつも「お前が悪いのだ」「お前は結局、自分が1番大事な、最低な人間だ」と言い、お前は被害者ではない、常に加害者なのだと、私に言い続けました。
そして,私はいつも本当にその通りだと、『( )の悪魔の声』に賛同し続けていました。
さらに、その『人間としての私』と『( )の悪魔の声』を、『恐ろしいと感じる程、静かな目でただ見ている存在』が同時に私の中にいて。
『静かな目を持つ存在』は、いつも何も言いません。ただじっと『人間としての私』と『( )の悪魔の声』のやり取りを見つめています。
ただ、その眼差しから、
「どんな自分からも、目をそらすことは許されない」「己の真実を見誤るな」「どんなことに対しても誠実であれ」
そのメッセージだけが、常に伝わっていました。
『私は自分勝手な人間で、善人ではない』。
その思いが、長らく私の心を苦しめていました。
だから、新しい環境やコミュニティに入り、他人から「あなたは優しい人だ」と言われる度に、降り積もっていく罪悪感。
違う。本当の私は、そんな人間じゃない。
苦手な人間関係を必死でこなし、やっと環境に馴染み、周りと仲良くなった頃。「私なんかが幸せになってはいけない」という無意識が、いつも突然私を「悪魔」に変えました。
「他人から1番嫌われそうな事」を無意識で選び取り、実行し、自分の居場所を破壊する。居場所を失い、1人になる。その、繰り返し。
最初はその事に、自分でも全く気づいていませんでした。
2,3年毎に繰り返される、破壊と再生。
抜け出せない、無限のループ。
どうして。私は本当はこんな事をしたくなかった、と泣き叫ぶ『人間の私』に、「今この瞬間も、お前は自分の悲しみにしか目を向けていない。やはりお前は自分勝手な、悪魔のような存在なのだ。」
悪魔はそう、言い放ちます。
あぁ、そうだ。
本当に、その通りだ…。
その度に、悪魔の声に飲み込まれる自分。
そうやって、幾度も過ちを繰り返し、無意識に人の心を傷つけてしまうしまう自分を、いつしか呪うようになりました。
「私は人と関わってはいけない」
「私は人を不幸にする存在なのだ」
そう、考えるようになりました。
友達がいないのは当然だ。
だって私は、悪魔なのだから。
他人との間に横たわる、『分厚い透明の壁』。抜け出せない、と思っていたその壁は、本当は「悪魔の私」を外に出さないための、目に見えない牢獄でもありました。
人間関係も、恋愛も、ひとつも上手くいかない。
そんな私にもようやく、心優しい恋人が出来ました。
そのまま結婚し、子供も出来、自分にとって安心出来る「ホーム」が出来たことで、初めて心にゆとりが出来ました。
家が、愛する家族がいれば、私は大丈夫。
穏やかな日々が続きました。
でも、そんな中で「夫と子どもの体調不良と子どもの不登校」という現実がやって来ました。
私という存在は、家族までを不幸にしてしまうのか。私はやはり、人を不幸にする悪魔なのか。
そう思い、絶望の縁に沈んでいた時に、noteという媒体に出会います。
その後は前述した通りです。
noteを通じて出会った人は、一人残らず私に優しく、親切にして下さいました。親身になり、たくさん相談に乗っていただき、励まされ、カラカラになっていた私の心に、皆さんからの、たくさんの思いやりが優しさが、染み込んでいきました。
そうして色んな事を学ぶ内、自分は成長し、前進したという気になっていました。文字通り、浮かれていたのだと思います。そうして油断して「私は昔とは違う。もう大丈夫だろう」と思ってしまった。
でもまた、私の中の悪魔の声にに飲み込まれ。
大切な人間関係を、破壊してしまったのです。
私は結局、何も変わっていなかった。
1番尊敬していた人から「あなたは病気だ」と言われた時。その通りだ、私はずっと、自分が狂っているのを知っていたのに、と思いました。
『人間の私』は、ものすごくショックを受けていました。
が、それと同時に「みんなに私が悪魔だと知れて良かった。もうこれで、大好きな人達を傷つけなくて済む。」と安堵する自分もいました。
罪を犯し、逃亡生活を送った末に捕まった犯人は、こんな気持ちだったのだろうか、と思いながら。
大切にしてきた、大好きな場所をまた、自らの手で壊してしまった。
そしてまた、私の中の悪魔の声が、叫びます。
「それ見たことか。自業自得だ。やっぱりお前は悪魔だ。悪魔が人間と仲良くなれるはずなんかないんだよ!」
その通りだ。もう、終わりだ…。
そう思いながら、私を叱ってくれた尊敬するその人に、最後まで自分勝手な想いを綴ったメッセージを送りました。
もう返事はもらえないだろう、そう思っていました。でも、どこまでも大人なその人は、返事を下さいました。
「これからも自分の思うように生きていってください。そういうあなたを好きだという人たちと、お付き合いしたらいいと思います。」
メッセージの最後にそう書いてあるのを読んだ時、思いました。そんな人など、この世のどこにもいない。私は、永遠にひとりなのだから。
自分は本当に、どこまでも愚かなのだろう。
こうしてまた、大好きな、大切な人達を失った。
でももう、本当に、最後なのだから。
最後まで、真摯に向かい合わなければ。
再度、メッセージを送ると、また、メッセージが帰って来ました。
「落ち込まなくていいけど、修正することを考慮して欲しいです。それは私のためというよりあなたのために。」
この人は本当に、どこまで器が大きく、愛の深い人なんだろう。
それに比べて、私は…。
自分の未熟さを思い、呪いました。
そして、メッセージには、続きがありました。
「あなたのことは仲間だと思ってます。」
その、1文を見た瞬間。
その、たった一言が。
私の心を貫き、粉々にしました。
他の何よりも、自分が欲しかった言葉。
それなのに。
どうして、今、なのか。
もう、死んでしまいたい。
はっきりと、初めて「死にたい」という気持ちが、心の底から浮かび上がりました。
生きているのが、辛い。
もう、死んでしまいたい。
本当は、もう何十年も、ずっと前から。
そう思い続けていた自分。
その気持ちを、自分は、本当は知っていたのに。ずっとずっと、知らないふりをしていました。
私は今まで、何の苦労もしていない。
衣食住に恵まれ、お金に苦労したこともなく。親にちゃんと育ててもらった。大人になり、結婚もし、子供もいて。ちゃんと、生活できていて。家族仲も問題はない。
私にはもう、じゅうぶんな幸せを与えられている。
それなのに、生きているのが辛い、苦しいと嘆くなんて。きっと、私がわがままで、傲慢なせいだ。
自殺したいと思っていいのは、厳しい人生を真摯に、懸命に生き抜いた人達だけだ。私には、そんなことを考える権利すら、ない。
私の辛さなど、きっと、他の人が抱えるような、辛いうちには入らない。
この程度の辛さなんて。
ゆっくり休めば、大丈夫。
ご飯を食べられて、ちゃんと眠れる私は平気。
大丈夫、大丈夫。
そう、自分に言い聞かせ、今までやってきました。
でも、本当は。
とっくの昔に私はすでに壊れ、狂っていて。
ただ、何も感じないように、心を麻痺させていただけなのかも知れません。
いつも、どこかで考えていました。
誰か、私を殺してくれないだろうか。でも、そう思うことさえ、きっと、傲慢なことなのだと。
「私は私しか、愛せないのだ」。そう気づいたあの日からずっと。
その後の人生を、「死ぬまでの消化試合」のように感じながら、「緩やかな自殺」を、心のどこかで願っていた自分。
でももし、私が私を傷つけたなら。私が自ら死を選んだら。きっと家族は悲しみ、苦しみを背負うことになるだろう。私は決して、私以外の誰かを、苦しませたいわけじゃない。
だからそれだけは、絶対にしてはいけない。私にとって、家族だけが、最後の生命線。そこを踏み越えたら、本当に終わりだと。
その1点だけで、今までの人生を必死に、懸命に生き、なんとか持ちこたえてきました。
「私は善人でありたい」「私は悪人だ」
「外に出たい」「外に出たら人を傷つける」
「人と仲良くしたい」「人と仲良くしてはいけない」
「人を愛したい」「人を愛してはいけない」
「人から愛されたい」「人から愛されてはいけない」
「みんなと一緒にいたい」「1人でいなければ」
「生きなければ」「本当は死にたい」
常に相反する気持ちを心に抱えながら、そのバランスをとることが、私にとっては、とても困難で。
その、どちらかに傾きすぎた時。
私の中に「破壊の神」が現れ、全てを無に返すために、人間関係を破壊してしまうのだろうと、今となっては思います。
だからと言って、人を傷つけていいはずはありません。私の心の問題は、私が処理すべきもの。
そう、わかっていても、上手くコントロールが出来ない。苦しい。でも、私に関わると、その人が不幸になってしまう。
誰にも頼ってはいけない。自分で、なんとかしなくては。
その後も幾度となく繰り返される、破壊と再生。
もう本当に、どうにもならないと気づいた今。
全てはもう、手遅れだと思い、絶望しました。
私は誰とも、深く関われない。
ずっと、『死にたい』と思っていた。
とうとう「本当の自分の気持ち」を目の当たりにしてしまった。呆然とする、『人間の私』。
いつものように、『悪魔の声』が、響きます。
「そうだ、お前は狂っている。お前は、善人になんてなれない悪魔だ。お前は、誰も愛せないし、愛されない。永遠に一人なんだよ!」
悪魔の高らかな笑い声が、響きます。
…イヤだ。
初めて、「人間の私」が、悪魔の声に反論しました。
粉々になった心の破片を必死で集めながら。
「一人ぼっちは、イヤだ。自分勝手だってわがままだって、わかってる。それでも、私はみんなと一緒にいたい。
私は、悪魔かも知れない。一生治らないかも知れない。それでも、善と悪を選べるのならば、善を選べる自分でいたい!」
『静かな目を持つ存在』が、いつものようにただじっと、『人間としての私』と『( )の悪魔の声』のやり取りを見つめています。
心の中で『人間の私』が、泣き叫けんでいます。
「私は、自分を、まだ諦めたくない!」
「どんな自分からも、目をそらすことは許されない」
「己の真実を見誤るな」
「どんなことに対しても誠実であれ」
初めて、『人間の私』が、『悪魔の声』でなく、『静かな目を持つ存在』の思いと一致しました。
初めて、憧れのnoterさんに会いに行った時。
緊張の中、その人と話し始めた時。
自分の瞳が輝き、ハートが開いていくのがわかりました。嬉しい。楽しい。
あっという間に過ぎていく時間。私は本当は、人が、人と関わるのが大好きなんだ。
その後も、色んな人に会う度に、自分のハートがますます開いていくのがわかりました。知り合った人は、一人残らず親切で、とても優しく接して下さいました。
その喜びを、私は知ってしまった。知らないほうが良かったのかもしれません。でももう、知らなかった頃には戻れない。
昔から、私という人間は、良くも悪くも人の感情を刺激する存在で、他人の人生においての通過点のようなものなのだと、ずっと思っていました。
人に何かを気づかせたり、人と人を繋いだりする役目。だから、私という人間が人と深く関わる必要はなく、そもそも我ままな私は、嫌われ役になることは当たり前だと。
ただ、周りの人達がそれで幸せになれるのなら、それでいいとずっと思っていました。それが、私の幸せだと。
私はいつも、ずっと1人。だから、これからもずっと1人であることに、何の問題もないと思っていました。
でも、私の心が、生まれて初めて、NOと言いました。
「自分を、諦めたくない。」
大雨の中、学校に行く娘を車で駅まで送った後。
その帰り道、踏切を、その赤いライトを眺めながら、ここに飛び込むしかなかった人々の苦しみを思い、どうして、私は生きているのだろう、生かされているのだろう、と思いました。
どうして、人生を懸命に生き、苦しみ、戦い抜いた人達が死なないといけなくて、何の苦労もなく、のうのうと暮らしている自分は今、どうして生きているのか。
そんなの、間違っている。
「私は私しか、愛せないのだ」ということに気がつき、絶望した、あの時から。同時に、「私はここに存在していいのか」「私はどうして生きているのか」という、問いが生まれました。
そして、その問いに対する答えは、ずっと出ないまま。「そんな自分を許せない。断じて、許してはならない。」
私は自分自身に対する『激しい怒り』を、ずっと抱えていたのだということに、ようやく気がつきました。
だから、「幸せになりたい、幸せになろう」などとは、そもそも考えたこともありませんでした。
でも、それももう、終わりにする時が来たのだと思います。
「みんなが幸せなら、それでいい」、そうずっと思っていましたが、それでは本当の意味で、みんなは幸せにはなれない。
その『みんな』の中に『自分』も入れなくてはならないと、ようやく気がついた…いえ、本当は気づいていたのに、それを頑なに認めようとはしませんでした。
寿命があるのなら、これからも人生は続いていきます。
今回のように、人に迷惑をかけたり、失敗したり、恥をかくことも、この先もあるでしょう。人の本質は、そうそう変わるものではありません。
『自分は愚かである』ことを心から認め。それでも『善でありたい』『自分を諦めたくない』という願いを叶え、そしてこれからも、適切に他人と関わっていく、そのためには。
今、自分が置かれている環境に感謝し、日々を丁寧に過ごしていくこと。家族や、身近な人達とのつながりを、大切にしていくこと。
まずはそこからだ、そう思いました。
*******
これでもう、心残りはありません。
この記事を以て一旦、私のnoteでの活動の幕引きと致します。
noteで知り合えた皆様に、心から感謝いたします。
今まで本当に、ありがとうございました。
しばらくゆっくり休みます。
また、『note』という素晴らしい出会いの場を提供して下さっている、運営の皆さんにも、心より感謝申し上げます。
皆さんの幸せを、いつも心から、お祈りしています。
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