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「今・たまたま」の茶を飲んで去れ

2021年4月18日のツイートまとめ。発端は「人の厚意を信じられなくて、愛を試すようなことをして、あったはずの信頼関係をも壊してしまう『石橋を叩いて割る』式の人」の話だったかな。

「信じるか疑うか、信じるに足ると確かめるために疑う」って、当番から他の人間にあまり向けたことのない感覚だな。「自分が用心をするかしないか」はあるけれど。「人を信じる」って何? 「その人は私に危害や迷惑や損失を与えないと安心していられる」ということ?
「私はその人に頼れる」ということ?

他人の言う「人を信じる」の内訳が当番にはわからないから、「信じるに足るかどうか疑う」の内訳もわからない。当番は「この人は安全だと安心していられる」という意味だったら「この人は安全だと安心していられる」と言うし、「この人には頼れる」という意味なら「この人には頼れる」と言う。

「(自分がその力に頼ってもいいものだとして)神様/仏様を信じる」とか「(それが嘘やデタラメではなく実在するものとして)幽霊を信じる」とかから類推して「人を信じる」の内訳を探っているんだけど。

人間ってたとえ本人に悪気が微塵もなくても、それまで安全だった人が危険になっちゃったり、それまで頼れていた人が頼りにならなくなっちゃったりするものだよね? 当番は、「この人は私にとって安全だ」とか「私はこの人に頼ることができる」とかに「いつも」や「ずっと」はないものと思っている。

「この人は私に危害や損失や迷惑を与えてこない。この人には『それほど』用心をしなくて済む、安全だ。なんてラクなんだろう」とか「この人には頼ることができる。ひとりで莫大な用心をしなくて済む。なんてラクなんだろう」とか思うことはある。でも「それはいつか終わるかもしれないな」といつも思う。

もちろん「次」も「その次」もその人が安全だったり頼もしかったりして当番がラクをできると「この人はなんていい人なんだろう」と思うけれど。でも、たとえば「頼れる」ということにしたって「前は頼れたけれど次は頼れなくなる」ということは、当人に何の悪意がなくても突然発生したりするものだし。

「前は頼れた人に今は頼れない」は「その人のキャパシティを超えた(キャパシティが前より小さくなった)」みたいな理由で簡単に発生することだし、「前はとても安全だった人が今は危険」は、相手の状況の変化/自分の状況の変化によってどちらが悪いということに関係なく簡単に発生することだし。

当番は他人に「私はあなたに対して安全で頼れる人間であると『いつも』『ずっと』はお約束できませんよ」と思っているし、当番からも他人に「あなたは私に対して『いつも』『ずっと』安全で頼れる人間で居続けると約束してください」とは求められない。人間はそんなに頑強不変にはできていない。

だって人間は老いるし病気になるし事故にだってあう。本人にはどうしようもない理由で財産を失ったりもする。それまで頼れていた相手に頼れなくなること、それまで安全だった相手が安全でなくなることは「相手が悪人で当番を裏切った」ではなくたって往々にして起こる。

だって人間は、当人に悪気が微塵もなくたって急にヤバい伝染病にかかったりする。地震や台風や火事や伝染病で家とか職をなくして貧乏になることがある。家族が急に重い病気や怪我をすることがある。他人の当番を親切にも頼らせてくれていた人が自分のことで手一杯になれば「頼れない」になる、簡単に。

「安全」で「頼れる」を「いつも」「ずっと」提供してくれるように約束してくれ、だなんて当番は他人に求められない。当番も他人に安全と頼り甲斐を「いつも・ずっと」は提供できないもの。「いま」当番にとってそこそこ安全でそこそこ頼れる人として接してくれてマジでありがとうねとは思うけれど。

「いま」そうであること、や「かつて」そうであったことが「これからも・いつも・ずっと」続くとは当番はお約束できないし、他人もお約束できないものだと当番は思っているので。「そうあったらラクなんだけどな」とは思うけれど、「ないかもしれない」場合のために「自分でどうにかする用心」はします。

それは「他人の安全性や頼もしさを信じていないから」とか「他人がその安全性や頼もしさを維持する能力の実在を疑っているから」とかではなく。諸行無常なので。信じる信じないとは関わりなく、状況は変わってしまうものだし、状況が変われば、できていたこと存在していたものは簡単に無くなりうるので。

人間のやること、人間の持つ能力に「いつも」と「ずっと」はないものなので。「今あるものが、次はない」「かつてあったものが、今はない」はすべて裏切りだとか嘘つきだとかいうわけではなく(裏切りや嘘である場合もあろうけれど)、ただ「『それがある』という時期が終わった」ということなので

「安全性」も「頼もしさ」も、有限な人間がやる限り有限なものなので。いま安全な相手、いま頼れる相手がいても、その相手にさえ一定の「用心」はします。「安全かどうか、頼れるかどうかわからない相手」にはもっと「用心」します。「用心」は「信じないのか?疑うのか?」というのとはちょっと違う。

「地震が台風が来ることを想定して、『用心のため』非常食を買う」みたいなやつです、「用心」は。「地震や台風が来ないと『信じて』非常食を買わない」とか「地震や台風が来るかもしれないと『疑って』非常食を買う」とか言わない。「いざというときを想定して備える」であって、信じる疑うではない。

で、さ。「安全だと思えるし、実際に安全である」や「頼れると思えるし、実際に頼れる」にも限界があるように、「安全性や頼もしさが見掛け倒しであり、実際はそうではない可能性を疑う」にしたって「いざというときを想定して用心する」にしたってやっぱり限界があるわけよ。人間がやることなので。

疑い続けるのもしんどいし、用心し続けるのもしんどいのよ。人間、自分で思う以上に有限なので。できる範囲でそこそこ疑い、そこそこ用心するくらいしかキャパシティ的にムリなんだって。少なくとも当番はムーリー。「いつも」「ずっと」疑いきるのもムリだし、「いつも」「ずっと」用心しきるのもムリ。

力尽きるから。そんなのあっという間に力尽きてしまうから。そもそも「いつも」「ずっと」が存在しない世界で「いつも」「ずっと」あり続けるものしか信じないとか頼らないとか言ってたら、「今」がどこにもなくなってしまうし、気力体力を消耗するばっかりで何かする前にくたびれて死んでしまうから。

「いま・たまたま」他人が自分にとって安全でいてくれること、「いま・たまたま」他人が自分にとって頼れる存在であってくれることを前にして「それは『いつも』『ずっと』ですか? 『いつも』『ずっと』だと信じていいんですよね? えっ違うんですか?」と問うているうちに「いま」は消えてしまうよ。

当番さんは常々「当番さんがあなたに提供するものに『いつも』と『ずっと』はねえですよ。『たまたま』何かをくれた人に対して欲張って『いつも』と『ずっと』まで期待するもんじゃねえですよ」と言っている。当番のお出しするものはすべて「いま・たまたま」ですよ。明日もお出しする約束はできません。

「いま・たまたま」当番さんが振舞っている熱いお茶を前に「明日も明後日もここにいますか? いつも、ずっとお茶を出してくれますか? そうでなければ安心して今日のお茶を飲めません」とかご無体なことを言いなさんな。まず冷めないうちに「いま・たまたま」のお茶を飲みなされ、で、飲んだら帰りなされ。

喫茶去(茶を喫して去れ、お茶飲んで行きなさい)!

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