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「じゃがりこを食べて感想を言う課題のある講座」のレポがすごかった話

2021年4月9日のツイートまとめ。リンク先のマンガ『絵画レッスン受けたらバチボコに怖い先生が出てきて人生観丸ごと変えられた話』を読んだ後の連投。これ、とてもいいレポマンガなので是非読んでほしい。まあーこれ無料で読ませてもらってもいいの? というくらい、いいレポート。いったんツリーを開いて読んで、それから当番noteへ戻ってきて。お願い。

上記のマンガを踏まえて、当番の連投。

学校で課題として出される文章に限って言えば「この課題では君自身の感情を表現してね!」の文章と「いや、この課題では君自身の感情を問うているわけではないのですよ」の文章がある。感想文とか行事作文とかは前者で、理科や地理歴史他調べてまとめる系のレポートは後者。

後者の文章を前者のスタイルで書くと「誰が感想文を書けと言った」になる。それはそう、まあそれはそう。それは「お前の感想はどうでもいい」と言うか「この文章でそれは求められていない」なので仕方がない。

マンガの講座で「感想とは感情の動きを描写すること」とやるのは、マンガが感情に訴える媒体だからだ。「調べてまとめて報告する系マンガもあるだろ」っていう向きもあろうけれど「『調べてまとめて報告する』をマンガでやる」のは「マンガなら読んでもいいかな、面白そうだし」と思ってもらうためで、「マンガなら読めそうだ、面白そうだし」と思ってもらうために、たとえば元のマンガでも受講者の感情が動いたところをレポマンガに描きこんでいるわけだし。

(元マンガはレポートのスタイルと感想文のスタイルをうまく組み合わせているから面白く読める。エンタメには「そういう要素」が要るという話)

「君の感情の変化を書いてくれ」と「設問に沿って書いてくれ」の違いは「文章の主題の違い」なので、書き手の感情表現を求められていない文章課題であっても、それは「君の気持ちをないがしろにしている」では全然ないのでな……

「班田収授法についてまとめよ」と言われたら班田収授法とはどんなもので、それによって当時の社会にどんな影響を与えたのかを調べてまとめろと言うだけの話で「君が班田収授法をどう思うかという気持ちの話(初めて知ったとか、いい/悪いと思うとか)」はここでは問われていないよねってことなので。

学年が上がるに従って「感想(自分の心が動いたことの描写)が中心の作文(読書感想文や行事作文)」が課題として出される頻度は下がっていって、「調べてまとめる」や「論じる」系の文章課題が増えていく。小学生の作文課題が感想文系から始まるのは「まず、自分に関係あることから」始めてるのよね。

まず「せんせい、あのね」や行事作文や感想文で「自分の主観的な気持ちを書き表す」から入るのは全然いいと思うよ当番は。学年が上がるにつれて「自分の気持ちは置いておいて、自分に関係ないことを関係のないままに第三者に伝える文章」を書けるように訓練していくのは、別に間違った方法ではない。

ただこう、「主観的な感想を書いてもいい作文」と「感想は要らないからの作文」をみんなごちゃまぜにして「もうとにかく何かを順序立てて書くのが苦手、枚数埋められない」で「苦手の箱」に入れっぱなし(コルクラボレポマンガで言うと植物を二度枯らしただけでもう「苦手」にする)なのがよくないやつ。

その文章なりマンガなりの「主題」は何なんだ?何について伝えたい文章/マンガなのだ?ということが大事であって。「感想を主題にしていい/主に感想を求められている文章(またはマンガ)」と「感想ではないものを主題とする文章(マンガ)」があるわけ。報告書なら感想が要らないのは当たり前。

西洋占星術フィルタを通すと「この文章では何を書くことを求められ、何はそれほど求められていないのか」というのは「水星(ことば)を使ってどの天体を表現しようとしているのか」とアストロ翻訳できると当番は思う。

「あなたが何かを経験したとき、あなたがそれをどう感じたか、どう感情が動いたかを書いてね!」は「月(体の感覚や反応)や金星(美しさや心地良さを味わうセンス)を水星(ことば)で表してね!」ということ。

「や、君の受けた感覚や感情の話ではなく、資料に書いてあることをしっかり読み取って、客観的にまとめて報告してくださいね」というのは「土星(物事の筋道に沿って導き出せる結論)を水星(ことば)で記述してくださいね」ということ。

こどもの作文指導が感覚(月)や感情・感性(金星)の言語化(水星)から始まるのも無理はないと思う。水星期が始まるのさえ7歳くらいからなわけで、あいうえおやABCを習い始めたばかりの7歳児にいきなり土星(筋道)の通訳(水星)から教えるのはムリだよ。

組み合わせでいくと「太陽を水星で代弁する」「火星を水星で代弁する」「木星を水星で代弁する」もあることになるが、それがどんなものかは後で考える。

「出口はこくご」案件だなこれ。

ちょっとじゃがりこ感想文をアストロほんやくこんにゃくしてこういうの描いてみたけど、どうよ。例によってそこらへんの付箋に描いたやつだけど、こういうことでねえのかな。

「じゃがりこは硬い」とか「じゃがりこを初めて食べた」とか、あるいは「じゃがりこは何年発売です」「じゃがりこは累計でこれだけ売れている」とかは、それ単体では「で、それで何を伝えたいんだ」になりがちなのよね。「じゃがりこがどうしたんだ、じゃがりこをどうしたいんだ」の補強にはなるけれど。

元マンガはマンガ家のための講座なので、じゃがりこ感想課題も「君は、君がいまじゃがりこを食べた体験をどう描写して、その描写で受け手に何を伝えたいんだ?」を探るものだと当番推測する。

「読書感想文、行事作文『自分の体験前体験後の変化を書け』の、『でも粗筋や時系列も書け』の、何をどうしていいかもう何もわからん」みたいな悲鳴を長年見聞きしてきたが、「体験から何か伝えたいことを書くためには『前提共有としての粗筋や時系列』必要」であって、そこらへんは匙加減。

口頭での会話でも同じことで、自分の感じたことをバーッと喋るだけで前提の共有があまりにもない場合は「待て待て待て今のは何の本のどの箇所の話だ、今の話はいつどこで誰が何した話なんだ」ってなるし、粗筋や時系列の話だけが延々と続いたら「待て待て待てそれで君は何を伝えたいんだ」ってなる。

その「粗筋や時系列を書いて前提を共有してくれ」「粗筋や時系列ばかりで文字数埋めて終わりにしないで、君がそこで何を思ったのか書いてくれ」は、「症状に応じて出されるリクエスト」であって、ごはんとおかず、骨と肉のバランスを取ろうねって話である。

ごはんが足りなければごはんを足してねと言われるし、おかずが足りなければおかずを足してねって言われます、それは。

君のお出ししてきた作文弁当は、ごはんが足りないのかおかずが足りないのか、どっちだ?という話。どっちがごはんでどっちがおかずかはどうでもいいけれど

小中学校、高校あたりまでで教える基本的な文章読解及び文章表現は本当に基礎の部分だけで、まあたとえばそれ以降何かを書いて仕事にしていくことを考えたら、それだけではまだまだ足りない。その先を教えるために大学やその他専門の講座が(たとえばマンガ家向けの講座が)あるわけで。

で、その「マンガ家用の専門講座を受けてきたよ」というのが元マンガのツリーであって(と大回りをしてスタート地点に戻ってくる)。小中学の感想文指導とマンガ家専門講座の感想課題指導が違うのは、小中学の体育指導とプロ選手向けの指導が違うようなものよね。

もう感想文課題もレポートも提出しなくていい立場(そういうことが仕事で要求されない立場)になったなら、感想がうまく言えなくて「えっとえっと……語彙力」になっても、報告書がうまく書けなくても問題ないけれど。マンガ家はレポマンガの仕事からPR案件まで「そういう表現力」が要る仕事だからね。

あのコルクアートクラスのバチボコに怖い先生の授業、バチボコにまともだなと当番思う。「動物50体描け(練習量増大と、よりよく描くためのより注意深い観察)」から始めて、次に「アウトプットのセンスを上げるために『流行りもの』に触れる(インプット量の増大、観察機会の増大)」を勧める。

「パンケーキが流行りならパンケーキを食べに行く、流行りものに触れて、なぜ流行りなのか、どんなものなのか知る」は表現の入口の話で、「じゃがりこ感想課題(何かに触れて何に心を動かされたのかを掴まえ、それを伝える)」はその出口の話。入口の後に出口の話で、講座の構成上手いなあって当番思う。

うまく描けるようになる為にはたくさん描く、うまく描けるように注意深く見る。何かを表現するには表現のための材料をまず仕入れる→流行りものにも積極的に触れる。材料を仕入れたら、あとは「それを取り込んだ自分の感じたこと」から何を伝えたいのか、どう伝えるのかの話になる。上手い。

講座の構成、バチボコにいい。参考になりまくる。

何が何の土台になっているかを勘案して、土台から上物へ、入口から出口へ、順序立ててある。整然としていて気持ちいい(当番の乙女月と射手金星大喜び。この講座、推せる)。

土台から順序立てて作られていて(当番の乙女月が大喜び)

それゆえに他のことにも応用が利く(当番の射手金星が大喜び)

いいもの読んだわ、推せるわ、と申しております(当番の射手水星談)。

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