微笑みの回廊(掌編・光)
いい加減にもう目が駄目になると思った。十分に用意してきたつもりの水もすでに一本を飲み干し、わずか二口程度しかない。このうだるとしか言いようのない暑さのなかでは、いくら飲んでも潤いを感じられずすこしも救われた気がしない。口に含んだそばからそのまま肌の表面に噴出して無に帰するのがもどかしく、絶望的にさえなる。
とにかくもう黄金はいい。目を休めたい。
分厚く白い壁に穿たれた入り口をくぐると、とたんにしんとした。はじめは昏く感じた視界も次第に馴れてくると、本堂のある広い敷地をぐるりと囲う回廊に、わずかに圧倒された。
白く太い柱に支えられた回廊は、赤い天井が続き、壁際にはひたすらに仏像が並んでいる。この仏像も黄金色だが、しかしひさしのおかげで光をまぬかれ、私の目を射貫かない。
回廊は、あの喧しい種々雑多な声と太陽の光から隔離されていた。
観光客のほとんどは、本堂から離れた巨大な涅槃の釈迦像に集まっている。いまのところ本堂の周りには、まばらに人がいるだけだ。さほど熱心でもない客は、あの涅槃仏を見て満足して帰るのかもしれない。
この国はどこに行ってもまばゆい仏像がある。はじめは見かけるたびにバンコクに訪れたという実感が湧き上がり、なんとなく有り難い気持ちになったりもしたのだが、こうも見続けていると感慨も薄れてくる。何よりこの熱帯は体力を根こそぎ奪ってゆくのだ。せっかくだからと己を奮起させる気力さえ目減りしてゆく。義務的な観光になるのも仕方がない。
カメラを取り出し、四方を向いてシャッターをきる。とりあえず何かいい絵が撮れるといい。この旅をはじめたころから唯一残る、ほとんど無気力の意地だ。
長く続く回廊をゆっくりと歩き、仏像の顔を眺める。その顔はどれも異なるが、よくもこんなに飽きずに同じ形を造れるものだと思う。これほど仏像を造るのは、それだけ救われたい現実があるということなのか。
私は足を止めて、柱に凭れた。
中庭には石の仏塔がいくつかあり、小ぶりな樹木もある。
ほとんど空になったペットボトルを見つめ、もったいぶっても仕方がないからと、ひとくち飲んだ。
ガイドブックを出して見る。この二〇〇体を優に超えるおびただしい仏像は、タイ北部から持ち寄られたものらしい。それ以降の説明を読んでもまったく頭に入ってこない。ぼんやりと誌面を眺めているだけの自分に気づいて、本を閉じる。
なぜこの国の仏像は、黄金なのか。
ずっと疑問だったが、いまならなんとなくわかる。
どこを見ても陽炎が見えそうなこの国は、朦朧とする。近すぎる太陽が、林立する仏舎利と寺の白い壁を焼いて光で埋め尽くし、見る者から思考を奪って陶酔へと引きこむ。
そのなかに現れるまばゆい仏の姿は、この国の人々が求める世界の具現化なのだ。おそらく敬虔と、幻覚は一揃いに違いない。
自国の仏像はとうに黄金色ではなくなった。きっと神仏を諦めたこころが、金箔を貼り続ける手を止めた。それももう、ずいぶん昔から。
私は左腕を持ち上げて、赤く染まった肌を見た。滅多にかかない汗が、玉の形をして浮き出ている。白い肌はすぐには黒くならず、ほとんど炎症で終わる。日陰というものを、こんなにまで大切に思える日がくるとは思わなかった。
飲み干したペットボトルをねじり、ガイドブックとともにバッグにしまう。
私はふたたびカメラを手に、回廊を歩きはじめた。
ほとんど代わり映えのない回廊に、やがてひとつの終わりが見えた。カメラを構えた。そこに山吹色が見えた。少年が石柱の傍で膝を抱いていた。
山吹色は僧衣だった。ぽつんと座る痩せた彼の姿に、私は思わず微笑んだ。きっと十歳くらいだ。修行をはじめたばかりなのかもしれない。
中庭に向いていた顔が、こちらを向いた。
カメラに気づいたのか、立ち上がって退こうとする。私は日本語で、いいよと声を出して、手振りでそのまま座っているように伝えた。それから二回、彼をフレームに入れたままシャッターを押した。
素人とは思えぬ絵が撮れた。小坊主がひとりでいるところはこの旅でいちども見たことがなかったし、背景にはただ柱と仏像が並ぶだけの、夾雑物のない非現実じみた絵だ。
戸惑うように私を見つめる少年の傍に近づいた。そしてタイのことばで、ありがとうと言った。少年は頬を硬直させ、目を泳がせている。
ちいさな唇が動いた。わたしは聞き返すように顔を近づけて、耳を傾けた。何かを言っている。だが聞き取れない。
目を向けると、視線が合った。怯えるような黒眼が見上げていて、もういちど彼が声を出した。
「スリー・ハンドレット・バーツ」
かすかなその声は、たしかにそう言った。
私は何かに穿たれたような気がした。
三〇〇バーツ。
少年は私に、金を要求したのだ。
私はしばらく何も言えず、動けなかった。座ったまま、今にもちいさくなって消えてしまいそうなほど肩をすぼめる少年と、向き合ったまま動けなかった。
手が震えた。何も言わずに私は彼の前から立ち去った。
回廊を戻ることなく中庭を抜けた。口の中が痺れているような感覚があった。スリーハンドレットバーツ。呟く掠れ声が幾度も響く。日本人だとわかった私に、思いついてしまったのだ。仏に仕える少年の中に何かが芽生える瞬間を、あのいかにも熟れない仕草にありありと見てしまった。
怒りなのか不安なのか、そのどちらにも集約できないものが足を重くする。ふたたび私の白肌を燃やす太陽に手をかざし、顔を隠して寺を出る。
外は鮮やかな色のタクシーばかりが詰まってのろのろと走っていた。どこに向かうのか予定を忘れてしまった。
でももう、黄金はいい。
私は街を歩き出した。露天商で馬のような人形を売る老婆が慌ただしく動いている。白いタンクトップの青年がござに座って刺繍のポーチを売っている。青年が歩く私を顔で追う。前を通ったすべての青年が私を見る。褐色の肌に際立つ白眼と、輝く黒眼が眩しそうに私を探る。
飲み物を売る青年がいた。水を求めると、5バーツと言われた。支払いを済まして蓋を開けていると、地元の客と思しき女性も5バーツを渡していた。水はよく冷えていた。
私はこの国に何を求めてきたのか、いまになってわかった。もういちど、人間を信じたかったのだ。
青年たちの目から逃れるように顔を上げる。顎から喉へと流れ落ちる汗を手のひらで拭いて、やがて十字路が見えた。私はあの角を曲がろうと思った。どこへゆく道かはわからないが、とにかくあの角を、曲がろうと思った。
了
二〇一七年五月十二日
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