月の裏側(掌編・球体)
「あなた、月の裏側を見たことある?」
「裏側? 知らない」
「あたし卒倒しそうになるのよ、思い出すだけでも」
葵は肩を竦めて両腕をさすり、口角を下げた。よく見るとほんとうに鳥肌が立っているから笑ってしまう。
「検索しなさいよ」
「なんでそんなになるってわかってて見なきゃなんねえんだよ」
「この地獄を共有するのよ」
やだね、と言って寝返りを打つ。本の表紙が折れ曲がりそうになってすこし慌てる。敬愛するギタリストの教則本だ。宝物だ。
「あたしよりそっちのギタリストなのね」
背中が温かくなる。葵がぴったりとくっついて、口をあてて喋るのだ。わざとらしい恨みの声を無視して文字を追っていると、ぷ、と息が吹き込まれた。
「湿る」
「いいじゃない」
「はやく追いつけよ」
本を見せるように上げる。
「追いついてやるわよ」
この男も、ギターの腕はピカイチだ。インパクトも十分なはずだ。業界でも評価が高い。もちろん俺が敬愛するギタリストのことは彼も心底敬愛している。さっきの拗ねたあれは、本当にわざと雑に言っただけだ。
「あたしはいつになったら、薫のいちばんになれるのかしら」
困った声にちょっと吹き出す。後頭部がすこし張る。長い後ろ髪を、きっといじらしく引っ張っているのだ。
「目、悪くなるわよ」
部屋の角にルームライトが点いているだけだ。月を模したもので、そこそこ明るい。ベッドからもそんなに遠くはない。
「聞いてるの」
振り返らない俺に、葵がとんと背中を叩く。
やっと首を捻ってやると、葵の大きな眸が間近にあった。俺はなんとなく、本の続きを読むのを諦めた。
ベッドから降りて、箪笥の上に本を置く。
「この月は、どこを見たってそんな卒倒するようなもんはないけど」
戻りながら角のルームライトに目をやると、葵が海老のように身体を丸めて、布団を腹まで引き上げた。
「誰も知りたかないわよ、裏側なんて。商品にもならないわ」
「都合の良いように捏造する、と」
「美しいって、そういうことじゃない」
そういうこと、と頭のなかで反芻して、納得しかけたが、結局俺のなかで心底同意するまでには根拠が見つけられなかった。欠伸が出た。もう頭がろくに働かないのだ。
いや。
あんまり追求するのはやめようと無意識に思ったのだ。
布団に足を入れると、葵は待っていたというように肩に手を置いた。長袖からのぞく白い腕が、磨き込まれたように光って見えた。彼の腕は確かに磨き込まれているが、その艶は欠伸で滲んだ涙のせいだとわかった。
葵が、静かに首と肩の隙間に鼻先を突っ込んできた。このくらいの距離感はいつものことだ。
ふいに、反対のこめかみに手を添えられる。葵の眸が近づいて、じっと目のなかを覗きこまれる。
唇が目に迫る。反射的に閉じて、涙を吸われているのだと気づく。
濡れた。涙ではない。
開けてみると、そっと、目のなかに何かが入ってきた。
熱い。
ぬるりとして、一瞬だが、皮膚の上を細波のようなものが走った。
すこしだけ、痛い。
「月面も、しょっぱいのかしら」
唇を離して、葵がにんまりと笑う。
呆れて、息を吐く。ちいさく痒みを覚えて、目尻を爪の先で搔く。
「薫の目は、美しいというより、綺麗よね」
頭を肩に戻しながら、葵がしみじみと呟く。
「だけどあんたの目も、えぐり出したら、月の裏側みたいに血管が蔓延っているのよ」
「夢見が悪くなった」
「まだ見てないじゃない」
葵が笑って、かすかに揺れが伝わった。頭の中には見たこともない、リアルな眼球が浮かんでいた。糸のような血管が無数に張り巡らされて、引きちぎられたそれらが手のひらに張り付いている。
「月の裏側、舐めてみたいわ」
なんとなく物騒なことを言っている。俺は応えずに瞼を閉じた。身じろぎをして、葵が密着を緩くした。
「蜜月。良い響きよね」
「甘そうだな」
「きっと甘いわ」
葵はそれきり黙った。
俺はすこしだけ、葵の黒髪に顎を寄せた。ドアがかすかに開く気配がして、それからベッドの上に山田が飛び乗ってきた。親友と猫と俺。狭く川の字に寝る。全員男か。こういう家族も悪くはない。
ルームライトを眺めて、クレーターらしき影を見る。しょっぱいというよりも、鉄臭そうな気がする。塩も血も、一緒か。甘みもある。思って、俺はまた瞼を閉じた。目のなかに、葵の舌の感触が残っていた。
了
二〇一七年二月十八日
(テーマ:球体)
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