空を飛んだ味噌

大学生の頃、研修でドイツへ行く機会があった。一週間のその研修は、現地の病院や老人ホームを見て回る、というもので、観光できる自由時間も多く組み込まれていた。大学生にもなると自由時間の過ごし方は私たちに一任されていて、集合時間に間に合いさえすればどこへ行っても構わない、と言われていた。

現地でどうしても会いたい友達がいた。彼女はドイツに留学中で、ホームステイをしながら戦時中のドイツの歴史を学んでいる。スケジュールが固まってすぐに、メールをした。

「今度研修でドイツに行くよ!時間あったら会える?何かいるものがあれば持っていくよ」

八時間の時差があるけれど、彼女からの返信はいつも早い。

「本当!?味噌、持ってきてもらえないかな?」

それくらいお安い御用だ。私たちはツェレという小さな町で午後四時に待ち合わせる約束をした。「北ドイツの真珠」と呼ばれる、美しい町。連絡も日本と同じようには出来ないことを見越して、町に一つしかない教会の入り口を待ち合わせ場所に決めた。

飛行機に乗る前、空港の近くのスーパーで味噌を買うことにした。彼女にこだわりを聞いてみたけれど、何でも良い、の一点張りだった。「赤とか白とか、結構味違うよ?」とか「おうちの味噌汁ってどんな感じ?」と粘っても、彼女は「味噌なら何でも良い」としか言わなかった。彼女なりの気遣いなのだ。結局、無難にスーパーのプライベートブランドの合わせ味噌を選んだ。液体の扱いになる味噌はスーツケースに入れるしかない。「味噌、またね」。手荷物カウンターでしばしの別れを告げた。

ドイツに到着し、初日のホテルで荷物を広げる。部屋に満ちる味噌の香り。しまった。飛行機の気圧を甘く見ていた。日本から大事に運んできた味噌は、パッケージが破れて三分の二くらいになってしまった。それでも渡す味噌はこれしかない。「味噌、ごめんね」。ビニールで何重にも包んで、渡す日を待った。

待ち合わせ当日。私たちはメールの通り、教会の入り口で落ち合った。「紹介したい」と言われていた、ドイツで出会ったという彼も一緒に。近くのカフェに入って席に座り、私はすぐに切り出した。

「あのね、味噌持ってきたんだけど、気圧で漏れちゃって…」

正直もう渡せる状態ではないと思っていた。いらない、と言われたら、ホテルで処分することも考えていた。

「日本から大事に持ってきてくれたんでしょ?いいよ、漏れてても。いるいる!」

彼女はとても喜んでくれた。綺麗な状態で渡せないのが申し訳なくなるほどに。「ごめんね、ちょっと量も減ってるよ?」と謝っても「いいのいいの!」と言って彼女は大事そうに鞄に収めてくれた。

自由時間はあっという間だった。ホテルに戻ってWi-Fiを繋ぐ。彼女からメールが来ていた。

「今日はありがとう!さっそく味噌汁を作りました。嬉しくてほっとした。やっぱりこっちで買う味噌とは、全然味が違ったの」

今でも、彼女は日本に戻ってくるたびに連絡をくれる。彼も交えて、三人でご飯に行くのがお決まりだ。お店はいつも同じ、食べ飲み放題三五〇〇円の居酒屋。鰹のたたきが大好きだという彼のお気に入りなのだ。

一度、彼女がお手洗いで席を外したときに彼がこっそり教えてくれたことがある。

「前、カオリが持ってきてくれた味噌があったでしょ?あれ、彼女本当に大事に使ってたんだ。腐るんじゃないかって、僕が心配するくらいに。仕事で疲れたとき、いつもあれを使って味噌汁を作ってた」

パッケージが破れても、中身が減っても。

「味噌、よかったね」。空を飛んだ味噌を、彼女は世界一幸せにしてくれたのだ。

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