見出し画像

エミーリエ・フレーゲ(1874~1952)のこと


世紀末のウィーンに生を受け、クリムト(1862~1918)のミューズとしても、実業家、デザイナーとして活躍。当時結婚が当たり前されている中で、第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦(1939~1945)と二つの大戦をたった一人で生き抜いた女性。 
彼女は“Reformkleid,”(英語でリフォームウェアとも)と呼ばれるコルセットのないドレスをデザインしたが、作品はウィーン美術館に 2 着のドレスが所蔵されているだけ。

エミーリエデザインのドレス
(※Gustav-Klimt-Foundationで1点水着を保有)


Reconstruction after a dress from the fashion salon Schwestern Flöge (c. 1909)

また彼女はウィーン・ジンメリングのプロテスタント墓地に埋葬されたが、お墓を発見したのはイギリス人のフレーゲのファンだったという。

https://www.austria.info/en/culture/artists-and-masterpieces/emilie-floege-fashion-desginer-and-gustav-klimts-muse)

Sandra Tretter, Director of the Gustav-Klimt-Foundationのインタビューより
 エミーリエの姉ヘレーネとクリムトの弟エルンストが結婚し、エルンスト急逝後、クリムトは、ヘレーネの後見人となり、フレーゲ家とクリムトの一族は絆を深めることとなります。

(ヘレーネ・クリムト肖像 ベルン美術館)

1904年エミーリエは姉と共にウィーン6区に、ウィーン工房によるデザインで(※ウィーン工房とは:20世紀初頭、建築家ヨーゼフ・ホフマンとデザイナーコロマン・モーザーによって設立された工房、1932年に出資者でありクリムトのパトロンでもあったオットー・プリマヴェージが破産し、ウィーン工房も解散。ウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動に影響を受けたデザインが特徴で、クリムトの作品はストックレー邸の壁画として現存)
Schwestern Flöge(フレーゲ姉妹の店)をオープンさせます。

このころクリムトがエミーリエを描いた1枚の絵があります。

エミーリエ・フレーゲの肖像1902年 ウィーン美術館

同じくクリムトが描いた17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像と比較してみるとエミーリエの変化がよく分かる。リフォームウェアに身を包み、実業家として自信に満ち溢れているような表情。一方で17歳のエミーリエは、繊細な少女の面影が強く残されている。1902年に描かれた肖像画を、エミーリエは気に入ることはありませんでした。

(エミーリエ・フレーゲの肖像 17歳 個人蔵)

ではクリムトと女性関係はどうだったのでしょうか。
クリムトには様々な女性と付き合いがありました。クライアントでもありパトロンでもある女性たち。モデルとなる若くて美しい女性たち。後年マーラーの妻となるアルマ・マーラー。そしてエミーリエ。
クリムトはモデルとして働く女性たちとの間子供をもうけましたが(6人とも16人とも言われる)クリムトは独身を通しました。
一方、エミーリエとの関係はクリムトが女性たちとの間に、子供をもうけるたびに疎遠となりましたが、それでもクリムトが亡くなる時の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。
また後年マーラーの妻となり、社交界の花でもあったアルマ・マーラーも、クリムトとの関係を忘れることがなかったとも言われています。
クリムト亡き後、エミーリエは第二次世界大戦を経験することとなります。顧客にユダヤ系の方も多かったため、ナチスから狙われる事となったり、ブティックも空襲で焼失といった被害を受ける事となります。
一方、クリムト自身は第二次世界大戦を知ることがないまま亡くなりましたが、クリムトの作品は第二次世界大戦によって、数奇な運命をたどることになります。1894年にウィーン大学に収められる予定だった『哲学』、『医学』、『法学』の3点が、1945年にインメンドルフ城において放火により焼失。また、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」もその所有権をめぐり、戦後複雑な経緯をたどることになりました。
エミーリエとクリムトの写真を比較すると、とても興味深いことに気づきます。興味がある方はリンク先からご覧ください。

エミーリエとシュナウザー

https://www.gettyimages.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%86%99%E7%9C%9F/emilie-fl%C3%B6ge-with-her-schnauzer-toby-photograph-about-1935-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%86%99%E7%9C%9F/143111351?adppopup=true

クリムト

1935年に撮影されたとシュナウザーと一緒エミーリエは、リフォームウェアではありません。
一方いつものスモッグをまとい猫と一緒のクリムト。
犬派のエミーリエ、猫派のクリムト。服装の違い。エミーリエとクリムトの性格の違いがでている面白い写真です。
性格が相反する二人だからこそ、ビジネスパートナーとして、へレーネの保護者として長くて付き合う事が出来たのでしょうか。1910以降のエミーリエの写真はほとんど残されていませんが、晴れ晴れた表情で穏和に微笑むエミーリエから、クリムト亡き後も前向き充実した日々を過ごしている事が伺われます。
クリムト亡き後も、エミーリエが生涯独身を貫き等したのは、後見人となったヘレーネを育てるための義務感からでしょうか。
それともクリムトとの思い出の中に生きたかったのでしょうか。
もちろん、エミーリエが独身を通すことができた要因にはフレーゲ家の経済力があり、経済力のための結婚の必要がなかったことも大きな要因でしょう。
クリムトとの思い出を胸に、二つの大戦を生き抜いた、クリムト運命の人エミーリエ。彼女の生き方は、どんな時代、どんな境遇にあっても、前向きで生きる素晴らしさを感じされてくれ、とても明るい気持ちになれるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?