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読むこと

写真:日本語訳だけだと迷子になるので英語訳も一緒に。サンスクリットで読めるほど精通していない限り「翻訳」という作業が必ずどこかでなされているので、私はいろいろなマテリアルを上手く使いたいと思っています。


今日は明日の講座のテキストを見直していました

 

最近、近視が進んでしまったせいか

目がひどく疲れやすく

本を読むのが億劫になっていました

 

そうなると

読むという習慣がついつい疎遠になりますので

読みたいんだけど・・・読めない・・・

と思いながら日々が過ぎて行きます

 

身体的に不都合なことがあると

つい、避けられない変化は如何ともし難く・・・と

理由つけて納得したくなり

仕事に必要な最小限さえカバーしたら

趣味のものは、またいつか・・・

とあきらめ気味でした

今日もテキストを読みながら

読むということをめぐって

そんなことが頭をかすめてゆきました

日本語訳だけだと迷子になるので英語訳も一緒に。サンスクリットで読めるほど精通していない限り「翻訳」という作業が必ずどこかでなされているので、私はいろいろなマテリアルを上手く使いたいと思っています。


そしてふと

閃くものがありました


そういえば・・・

我が家のシニアたちは

70、80になっても

また90に手が届きそうでも!

結構な量の読書をします

母は随分な年齢なのですが

空いてる時間

やはりとても集中して本を読みます

彼女が集中しているのがわかるので

私もできるだけ邪魔をしないようにします

叔父や叔母たちも同様で

研究者という仕事柄もあるのでしょうが

読むということへの熱意には驚くものがあります

もちろん彼らの誰もが

年齢とともに視力の衰えや軽い故障を経験しています

それでふと父が亡くなった時の光景を思い出しました

お通夜で遺体の側に交代して付き添うのですが

その時、仕事の合間に駆けつけてくれた叔父たち叔母たちは

交代して休む時、やはり何か読んでいました

多分、読む必要のある論文や資料だったのだと思います

それは、ちょっとシュールな光景にも思えますが

同時に不思議に日常でもありました

彼らは父の遺体に交代で付き添い

思い出話をかわし

残された家族を思いやり

駆けつけてくれた人たちの対応をし

急ぐでもなく、粗雑にするでもなく

隙間ができたら

自然と今できることをするという感じでした

その周りは静かで穏やかだったのを思い出します

生活という日常を考えると

私たちはいろいろなことと関わりながら日々を暮らしています

時間と体力と興味と義務と

それらをその時の優先順位に照らし合わせて

天秤にかけながら

工夫してそれらと向き合う

母たちを見ていると

それはいずれ工夫を越えて

自然になるのだろうなと思います

私も読むことを諦めないようにしようと思います


そして目が疲れるから減らそう・・・でなくて

そのためにできることをしてみようと思いました

目を休ませる時間をとって

目を疲れさせない工夫をして

読むことの習慣に戻れるように

何かの答えを求めて読むことは最近減りました

ただ、読むことを通じて

私は豊かになります

それは忘れているものを蘇らせたり

見えていなかったものに気づかせたり

読むことは私に喜びをもたらします


それを失わないようにしたいなと思いました

まずは手始めに

ディスプレイに向かう時間を減らそうと思います

秋ごろにはどんな変化があるか楽しみです


※ 2020年2月に書いたものをここに移しました