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なぜプラクティスをするのか

写真:雨も降って痛みがひどかった日
痛みをマネージできる場所を探る


なぜヨガをプラクティスするかは人それぞれ

何に興味をもって、どのようにヨガをツールとして使うか

伝統的な方法であろうがなかろうが構わない

と私は思っています

プラクティスとは、つまるところパーソナルなものです

つまり、どのようなメリットでも

自分がメリットを感じるのであれば、まずはそれでいいのです

それをヨガ的なものに変えなくては「ならない」と思わなくてもいいって思います

それは、結局のところ

私たちが人生のあらゆる場面において

私たちがまさに選択を行うその場面で

何を選ぶかということの一つだと思います

ヨガの深く広大な智慧に触れなくても

人生はそれなりに心地よく、そしてまた思いがけないチャレンジに満ちています

ヨガを始めたからと言って

またとても真剣にそれに取り組んだからとて

まぁ、やはり悩みはつきず

人生は困難に満ち

また、まぁそれなりに幸せでもあるでしょう

ただ、教えるのであれば

受け取る側がどのような選択をしようとも

少なくとも自分が信じているものを

丁寧に伝えていく必要があると思っています

ここで、伝えての変わりに「教えて」って書こうとしたのだけれど

さて・・・

「教える」だけの知識が

本当にその知識が、私たちにあるのかどうか

私が伝えられることは

私がこれまで生きてきた経験と

先生から受け取ったことや

自分のプラクティスで重ねて経験したことに

読んだり・見たり・書いたり・・・して学んだこと

それは、教えるというより

むしろ「伝える」ということの方が近いように思います

それも私というフィルターを通して

でも、私たちが学んでいることは教えであり

それを私たちはティーチングと呼んでいます


伝える

何を?

私が、途方にくれたことや、信じていること

大いなる喜びに満たされた一方で、悲嘆に暮れたこと

愛をもって導かれ、同時に迷走し

それでもたくさんの祝福を受け

何度も何度も、飽きもせずに

最初の時点へと戻ることを繰り返していること

平静の時もそうでない時も

いつの時にも、私を支えてくれたものとその経験

今日のクラスで

プラクティスについて先生と話したのだけど

NYCにくることや、ここでのプラクティスについて

それは「私にとって、身体的なそして精神的な滋養となるから」

って、頭で考える前に口がするっと答えてました

ここでのプラクティスで

私は何度も「初めての場所」へと戻ってくることができる

それは、私にとってとても大切な場所で

それが、私にたくさんの気づきをもたらし

私の足をもう一度しっかりと根付かせ

そして私自身を解放するから

そして何より

それは喜びであるから

今日のプラクティスで

この夏久しぶりに、本当にすっかりと

びっくりするくらいなめらかに

背骨が解放される経験をしました

その時

私の口元には

自然と微笑みが浮かんで

それが

全身へとさざ波のように広がるのを感じました

ヨガをするなら

自分にとってそのような経験をもたらすプラクティスを

たとえ今はそういうものに興味がないとしても

いつか見つけてもらえたらいいなと私は思います

プラクティスは自分をむりやり矯正したり

自分を非難したり

あるいは、誰かにダメだしされたりするような

攻撃的なものではないようにしたいなと思います

そこから何が立ち上ったとしても

それは

やはり喜びだと思うのです

to All my teachers

Love and Gratitude

Kaori