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八月花形歌舞伎「吉野山」ーコロナ禍の歌舞伎と臨場感ー

水を打ったように静かな客席、

役者さん(日替わりで、私の回は七之助さん)による、異例の開演前アナウンス。

定式幕を引くサーっという音、咲き誇る桜。

特製の黒マスクをつけた地方連中(長唄と三味線を演奏する方々)、

花道に登場する静御前の匂い立つような美しさ、可憐さ…

それでも、大向こうは、聞こえない。

異例の四部入れ替え制となった歌舞伎座は、一つ一つの演目に「臨もう」とする出演者・観客の集中力が満ち溢れ、いつも以上に五感が研ぎ澄まされ、臨場感を感じる観劇体験となりました。


でも、やっぱ、

生の歌舞伎は面白いや!

先月の話になってしまいますが、5ヶ月ぶりに観劇に出かけました。八月花形歌舞伎第三部「義経千本桜 吉野山」。佐藤忠信(実は源九郎狐)に猿之助さん、道化役の逸見藤太に猿弥さん、静御前に七之助さんというキャスト。

祖母と叔母の影響で少しずつ歌舞伎が好きになっている私ですが、なかなか観劇の機会が訪れず、今回は初めての「吉野山」でした。定番の人気演目とはいえ、舞踊劇ということで「大丈夫かな…イヤホンガイドなしで楽しめるかな…」と少し不安でしたが、めちゃくちゃ面白かったです!

観客はひと席ずつ間隔をあけて観賞し、客席・ロビーでの歓談は控えるように。筋書きの販売、イヤホンガイドの貸し出し、幕間の飲食の販売もなく、簡略化された筋書きパンフレットが入り口に置かれているだけというなんとも切ない状況ではありましたが…この状況下で、それでも観劇にくるお客さんともなると、筋金入りのファンばかり。まずは歌舞伎が再開したという喜びを静かに噛み締めるような空気感がありました。

七之助さんの美しさ。

いや、静御前、キュルキュル〜!!!(MIU404の伊吹風)

こんなこと言ったら怒られるかもしれませんが…

なんて綺麗なんでしょう。愛する義経を想いながら一人山道を歩く静御前て、なんて健気なんでしょう。

美しい人が踊っているというより、美が人間の形をして舞っているように感じて、うっとりし続けてしまいました。生身の人間でいらっしゃるんですが、芸に生き続けると、人って体ごと芸術になれるんだなあ。

七之助さんの女方姿は去年の納涼で少しだけ拝見しましたが、きちんと通し役としてのお姿を生で見るのが初めて。念願が叶いました。幕切れ直前、再び旅装束で花道に戻り、裾のホコリをチョンチョンとはらう仕草が妙に印象に残っています。たぶん、「もう終わっちゃうんだ…もっと見ていたい…」と思ったからでしょうか。

猿之助さんの巧みな芸。

半沢直樹の伊佐山役の怪演で改めて話題となっていらっしゃいますが、役者は顔芸とキャラの濃さだけじゃないや。

忠信(実は源九郎狐)という二面性という側面では、もちろん最後のぶっかえり(衣装を引き抜いて、一瞬で早変わりするところ)が大きな見せ場なのかなと思いますが、猿之助さんの芸の巧みさは、むしろ中盤に見られるんじゃないかなと学びました。つまり、忠信として踊っているんだけれども、ところどころに狐がでてきちゃう瞬間の演じ方に、素人ながら感動いたしました。この演目を見るのは初めてでしたが、「あ、今狐に戻っちゃったんだな」っていう瞬間がわかるんです。怪しい太鼓の音色が響いたり、手を狐のようにして四足歩行しちゃうから、そりゃ分かりやすいっちゃー分かりやすいんですが、振り付けというより、文字通り「化けの皮が剥がれ」かける瞬間だとはっきりわかる巧みさはすごいなと思いました。

竹本連中の長唄に合わせて忠信の忠義・壇ノ浦の様子を物語る姿も勇ましくカッコ良かったです。素人がやったら膝があざだらけになりそうな振りつけだ。

あと、今回3、4回目の観劇となってようやく「清元」(深緑の裃)と「竹本」(オレンジの裃)の特色の違いがわかってきたような気がします。高めの柔らかい声で、詩的に繊細に唄うのが清元、お腹に響く中低音の三味線の響きと、荒々しく力強い義太夫(もっと飛沫が飛びそうな…)が竹本、という理解で、あってるのかな…

忘れちゃいけない猿弥さん

美しい舞、勇ましい舞が続き、「うむ、そろそろお腹いっぱいだなあ…」と思いかけた絶妙なタイミングでコケティッシュに登場するのが、猿弥さん演じる早見の藤太。大いに楽しませていただきました。

以前、「歌舞伎の、しかも古典作品って真面目で難しくて退屈しそう…」と思っていたのが、「道化」の存在を知ってからガラリとイメージが変わったのを覚えています。「三枚目」って、元は歌舞伎用語なのでした。古典の魅力はいくつもありますが、時事ネタや役者いじりもやっちゃう「道化」との絡みの面白さ・愛嬌も、もうちょっと対外的にフィーチャーされてもいいのになって思います。

「眺めはソーシャルディスタンス」 

「こうして会うたのも何かのえんのすけ、腐れえんやと言われても…***をこちらに渡しちのすけ

粋な絡みにクスッと笑いがこぼれ(静かに観劇しなきゃいけないので控えめにですが)、肩の力をふっと抜いて楽しむことができました。

コロナ禍で、劇場を開くということ。

感染リスク、資金的リスク、ブランドのリスク…劇場再開には、様々なリスクがあります。実際、あれだけ感染防止対策をしていた宝塚でもクラスターが発生してしまいました。

歌舞伎座は、楽屋も客席も演目ごとに総入れ替えし、工夫に工夫を凝らして興行を続けています。観劇前後、そして舞台からも、並々ならぬ覚悟をひしひしと感じました。待っている客のためになんとしても再開しようと尽力されてくださっている出演者・関係者の方々に、感謝、感謝のひとときでした。

それに応えるように、観客も並々ならぬ覚悟と集中力で「観劇に臨んで」いました。


生っていいや。

私は、家のテレビで歌舞伎の古典作品を通しで見終わったことがありません。どうしても家だと集中力が散漫になり、古典ならではの話のテンポの遅さや抽象度の高さに耐えられなくなって早送りしてしまうのです。勉強不足で、にわかに毛が生えたような、情けないひよっこファンです。

客席という空間は特殊で、リビングと違ってスマホは使えないし本は読めない。舞台以外には見るものがない中で、寝るか、観るかの二択しかない。

だからこそ、話の筋を楽しむだけではなく、表現者の技巧・指先の細かいディテールにまで目がいく。

その場に「いる」こと。

自分の目で、この美しい舞踊を目撃していることの感嘆。

生観劇だからこその集中力と没入感が、より歌舞伎を面白くさせるんだなと感じました。

「臨場感」

観劇しながら、「臨場感」という言葉が何回も頭によぎりました。

「真の臨場感って、ダイナミックでイマーシブな演出をしよう、みたいな一方通行の工夫で達成されるもんじゃない。舞台制作と演者の心意気に、観客の魂が重なった時に起こるんだな」ということでした。

コロナ禍という社会の大きな波のなかで、「この舞台に臨もう」「芝居が好きだ」「歌舞伎が好きだ」という使命感を共有した演者と観客が、一つの空間を共有しているという実感そのものが、大きなうねりとなって「臨場感」を引き出しているような感覚がありました。

使命感の共有という意味でいえば、大向こうなんてそれを象徴するような伝統です。でも、その掛け声すら『聞こえてはいけない』のが2020年夏の歌舞伎座。

みんなが、心の中で「澤瀉屋っ」「中村屋っ」と叫ぶ心の声は、唯一許されて懸命な拍手の音にのって、渦巻きながら舞台に届いていたことだろうと思います。




…それにしても、なんとか大向こうを復活させられないものかな…

…録音した音をスピーカーから流すくらいなら、無い方がマシっていう判断かもしれないけれど…



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