義父の葬儀
2/17〜18
16日の23時55分、満月の夜に亡くなった義父の通夜、葬儀が無事終わりました。
夫の親ではあるものの、親が亡くなるというのは私達夫婦にとっては初めての事で。
初めて体験する事ばかりでした。
普段は家では私に威張っている夫が、
この度は朝から夜までずっと泣いていて、思考も度々ままならない状況だったので〜
仕事を休み、
朝から付いていって良かったと思いました。
その場で決めなくては行けない事、
対応しなくてはいけない事が沢山あるんですね。
混乱して決められない夫に助け舟を出す役でした。
夫のお姉さんも到着。
お姉さんは実は、数年前からお義父さんが呼び寄せて実家に住んでくれているんですが、私は結婚して以来、会うのは実は初めて!
結婚時の披露宴で見かけただけで、25年間一度も会ったことが無かったお姉さん。
コロナ禍で人と接する事を極端に恐れて、だから夫の両親にはこの2年間、全くといって良いほど私は会えていなく。
私がお義父さん、お義母さんに会いたいと思っても、ひたすら断られていたので、どんな方だろう?と思っていたのだけれど…
お会いして目を見た瞬間、
ああ!なんだか前から知ってる人!
血は繋がっていないけど身内!
みたいに、その瞬間で全部が溶けるような。
色々な決定も何もかも、お姉さんと夫に任せれば何も心配要らないと思いました。
実際、最初に細かな事を決めなくてはいけない以外は、何も心配する事が無かったんです。
亡くなったお義父さんが全部手配をしてくれていました。
ユ○ベルの会員になっていたお義父さんがファイルを作っていて、そのファイルの1ページ目に、
「○○に電話する事!」
と書いてくれていて。
そこに一本電話したら、病院から葬儀場までのタクシーも、その後も全部スムーズに手配される様になっていたんです。
納棺士さん達に綺麗にしてもらい、納棺の儀にも立ち合い。
お坊さんも式場が手配してくれた。
葬儀のホールとセットになった、セミスイートのホテルの部屋みたいな場所で過ごし。
おまけに、去年、一昨年と社会人になったばかりの息子と娘も休みを取って駆けつけてくれた!
息子なんか、来週の水曜日まで休みをもらったそうで。
「親の私より長いじゃん!」
と、驚いたけれど。
息子が15才で家を出た日から実に9年ぶりに、家族4人で同じ部屋で旅行の様に寝泊まりする事が出来ました。
それは私にとってはお義父さんからの、最後の最高のプレゼントでした!
なので、悲しい日なんだけど、同時に凄く幸せな日でもありました。
この度は、香典も受け取らず、返しや案内文も用意せず、
身内だけの家族葬に。
お義父さんの妹さんと、
私の母が葬儀に来てくれました。
亡くなって思うのは、もっと色々な事を聞いておけば良かったと思う事。
昭和5年生まれのお義父さんは、原爆手帳を持っていますが、どんな若い頃だったのか、何も聞いた事が無いのに、亡くなってから気付きました。
妹さんが来て知ったのは、
お義父さんは長男で、妹が3人いる事。
来てくださった妹さんは、兄であるお義父さんとは17才離れている事。
父が13才で亡くなり、お義父さんがお父さん代わりの様になってくれ、育った事を話してくれました。
私のお義父さんの印象は、92才という年齢にしては大柄で、見た目と同じく頼りになる皆のおとうさん。
お義母さんは頑固でプライドの高い方でしたが、お義父さんの前では少女の様に見えました。
そんな、皆に頼りにされているお義父さん…
晩年に、妹さんに電話してきた時に話したのは
「うちの(お義母さん)もボケて頼りにならんで…
わしは誰を頼りに生きていけば良いんかのう?」
と漏らしていたのだとか。
強く見えても、長く生きても人には心細さがあるのだと知った、印象深い話でした。
あとは、お墓の心配を最後までしていたのだとか。
本籍地の他県にお墓が四つあるんです。
一つは、お義父さんが生前に建てておいたもの。
…だけど山の中にあり、歳を取ると行けなくなり。
我が家が毎年墓参りをしているけれど、それもあと20年もすれば難しいかもしれない。
お墓をこちらに引越しするにも、普通の墓地の区画には入らない位大きくて立派なもので。
残りの墓も江戸時代からの土葬で。
どうしたものか、結論は出ていないけれど、
残された私達の事をずっと心配してくれていたんでした。
でも、最後が心配ばかりだったら申し訳ないなと思います。
お義父さんが亡くなって思いました。
変かもだけど…
生きてる時の心配事は…死んだ後に誰か
(お墓に関しては子供である私達)
が何とかしてくれる!
だから、そんなに心配しなくて良いんだって、思ってしまいました。
…お通夜の間は、お義父さんの大きくて朗らかな愛みたいなのをずっと感じていました。
布団に入って数時間後に目が覚めて寝付けなくなり〜
すると、結婚する時から今までの25年間と、
それより前の幼少期からの私自身の生い立ちを
(実家と婚家の違いについて)
ずっと振り返ってしまったんだけど〜
思ったのは、お義父さんは口には言わなかったけれど、ずっと心配して見守ってくれていたに違いないということ。
私は23才の時、両親の勧めもあってお見合いをすることになり、仲人役の方に勧められたのが今の婚家で。
当時は就職氷河期で寿退社の時代。
遊学していたカナダから帰国後は仕事も決まらず、実家にいる事も出来ず。
当時は心身もそれほど強く無く、一人で生きていく自信も無かった私。
うちの人を紹介され初めて会った時、この人となら暮らせるかもしれない…
好きになる人は何人かいても、
一緒に暮らせると思う人は案外そんなには、いないかもしれない…
と直感的に思っただけで、
他の事はよく分からず会って3ヶ月後には結婚式、という流れだったのだけれど。
嫁いでみれば、とても固い家で、友人達には結婚式の段階で
「私はこの家には嫁げない」
と打ち明けられるほどでした。
最初からその事を察した母には、結婚を大反対され、
同じく、プライドが高かったお義母さんにも、
「家系にふさわしくない」
と大反対され。
(私自身は、私の家系にも誇りがあるのだけれど)
そんな中、うちの人にも色々あり、信頼関係が出来るほどには長い間なかなかなれず…
結婚してから特に最初の10数年は、私にとっては
心情的にも苦労が続きました。
そんな中、今日まで続いてこれたのは、目には見えないお義父さんの計らいがあったに違いないと、思わずにいられないです。
…と、ここまで書いて、なんだか泣けてきました。
この2日間は、色んな事があり過ぎて、何をどこからどう書いて良いのか分からないまま、書き始めたらこんな文章になったけれど。
この一年は、何度も命の危機になりながらも、家に帰りたい一心に、何度も復活して入退院を繰り返していたお義父さん。
夫の話によると、最後は歯を食いしばって痛みに耐えていたのだろう〜
口の中は血だらけだったと言います。
本当に信じられないくらい、よく頑張って生きてくれました。
甘いものも美味しいものも大好きなのに、糖尿病になって食べられなかったお義父さん。
棺の中に一緒にいれるものは、私もお姉さんも、饅頭しか思いつかなかった。
天国で沢山美味しいものを食べてね。
これから寂しくなるのでしょうか。
たった今は、お義父さんの温かさを感じています。
文章が誰かの心に響いて、それが対価になって、それを元手にさらに経験を積んで文章など色々な表現で還元出来たらと思い続けています。 サポートお待ちしております♪