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好きだった人たちが老い、去ってゆく

私が30代前半なのもあってか、今70歳前後の人には、さまざまにお世話になった記憶がある。

この世代はもうハラスメントについて学ぶことはできない。自分たちが今まで学んできたことを反芻する以外のことは、年齢的にできないだろう。
流動性知能と、結晶性知能というものがあるが、流動性知能は65歳くらいから落ちてくるという。もうこの年齢になると、新しい価値観や枠組みに適応することはまず無理だ。かといって、高齢者を老害と差別的な表現で呼ぶつもりはない。しかしムカつくときがある、それが素直な思い。

時代の変化がすごすぎて悲しくなることが多い。
近所のセリアに行くと、高齢者が、自動精算機に並ぶが、現金が使えずに怒り出す。「なんで現金使えないの!」並んで待っただけに怒り心頭である。
いちおう精算機の周りに「現金使えません」の張り紙がある。しかし、おそらく見えていないのだ。60代も過ぎると目はだいぶ悪くなってくる。緑内障、白内障、老化と共に必ず経験する病気である。目が見えている様子だからといって、若い人と同じようには見えていない。

だいたい、自動精算機に並んだのは「みんなこっちに並んでいるから」だろう。なんとなくつられて並んでいる。精算手段別にレジが分かれているなんて、想定していないのだ。
最近は、40代以下は電子マネーで支払いする人の方が増え、有人レジでは店員が暇そうに立っていることが多い。誰も利用していないので、そこに並ぶのがなんとなく恥ずかしいというのもあるかもしれない。なんとなく、他の人の真似をしないと恥ずかしい、という日本人的なやつだ。で、みんなが並んでいる方にとりあえず並ぶ。すると、現金が使えない。だから、怒る。

今週の虎に翼を見て

日頃、ご高齢の方の善良なヒューマニズムや、懐の広さには助けられており、それによって多くのものを与えられ、得ることができた。
しかし、彼らのハラスメント意識のなさ、そして、リベラルで左派っぽいことをいう割に、その現実世界での自分への甘さ、はただただ不快に感じてしまう。



偶然読んだ本。名古屋周辺の戦後の暮らしの話が多く、面白い。
しかし、これ自体も、いかにも目立ちたがりの団塊おじさんの書いた本という感じだ。
女性に関する記述はひどい。
貧しい人や、朝鮮人などのマイノリティを憐れむことができる一方で、女性に対してはなぜこうなのか…。

穂高先生というキャラは、これまでのドラマで描かれなかったキャラのように思う。
中高年以上の人々はこれを見て何を思うのだろうか。
リベラルで思想的には左派で、理想高いし、やるべきことはやろうとするが、何かこう諦め切っていて、自分一人では無理だという諦念が強くて、女性のことを尊重しようとしつつも、本人の気持ちを真に尊重はしていない。空想上の女性を相手にしているというか。目の前の人を尊重する、ということがどういうことであるのか、そもそもわかっていないのかもしれない。理想はあっても、手段や方法を知らないのかもしれない。

『虎に翼』で描かれているのは、戦前から戦後すぐの時代なので、穂高先生は団塊の世代ではない。しかし、その価値観や内包したヒューマニズムは、団塊世代的にも通ずる。とみていて思った。

理想に燃えつつも、現実には、しばしば自分に甘く、もはや、この時代について行くことができていない。

その理想は眩しく正しいもので、そして、その正義を求める純粋さ、ときにはその自分や身内に甘いというやさしさ、甘さによって私は守られ、育てられてきたとも思う。しかし、このひとたちはもう間も無くいなくなる。

話は通じずとも、無神経さに傷つくことがあっても、その真面目さは好きだった。助けられてきた。たくさんいろんなことを教わった。

この人たちが亡くなった後、何が残るのだろう?

金儲け、拝金主義、快楽主義、冷笑主義、ネオリベラリズム、能力主義、自己責任、競争社会、格差社会。
貧しくなり、強いものが弱いものを食い尽くす社会。

どうしたら、そうならずにすむだろうか。


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