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【エッセイ】捜神記私抄 その三

 神道(超現実的な摂理)とは、『論語』に「怪力かいりょく乱神を語らず」とある、その怪力乱神のことであると訳者の解説からは読み取れる。君子が口するようなご高説ではなくて、ちょっといかがわしいところのある怪異現象をお話ししますよ、と。しかし、それは説明不能のものではない。著者の干宝という人は、陰陽術数に傾倒していたらしく、古くから伝えられてきた説話に現れる超現実的な現象を五行で説明しようとする。

妖怪とは、つまり、精気が物に宿ったものなのである。……木・火・土・ごん・水の五要素の運行する根本原則をわきまえ、貌・言・視・聴・思の五機能に通暁つうぎょうしていれば、万物が……いかにさまざまに変化を見せようとも、ひとつひとつ分類して説明することができる。
天には五つの気があり、それが変化して万物が形成されるのである。……変化に応じて動くのが尋常のありかたと言える。ところが万一道を踏み外すと、怪異が生ずる。

 小説とは、いや志怪小説とは、天下国家や人生を論じる大説とは違って、怪異を記す。おそらくそこにフィクションをつくるという意識は薄かっただろう。当時の都市(とは限らぬけれど)伝説のような、素朴な口承民話の羅列である。各巻は仙人の事跡、予言・予兆、妖怪や幽霊などの怪異、異類婚姻譚などに大雑把に分類され、日本の神話や昔話と同根と思われるものまでもある。

 類型にこそ微妙な色合いが含まれると喝破した作家がいたものだが、なかなかそのような境地に達することができない凡俗の身としては、既視感のある神話や説話はなかなかに退屈なのである。集合的無意識なんてものではなく、単なる影響関係でもなく、人間の想像力は限られている。テクノロジーが進歩しても、人の物語発想力は大して進歩していないではないか。

 しかしながら、一方で神話や説話は、次々と新たな装いを纏って語られるストーリーの源泉であり続けている。つまり、人の想像力そのものは限られて進歩しないかもしれないけれど、一度ひとたびフィクションという概念が生まれるや否や、ストーリーテリングの技法が磨かれてきたのである。そういう意味で『捜神記』は、古色蒼然たる原点の一つであり、原石の輝きを放っているのかもしれない。

(続く)

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