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【短編】山から下りるとき 前編

 山から下りるとき、それがどんな山であっても似たようなある種の感覚に捉えられる。

 日本アルプスの縦走であっても、日帰りのピストンであっても、岩登りでも、雪山でも、あるいは郊外の低山であっても、最後のピークを越え素晴らしい見晴らしも消えて、延々とつくづく単調な下山道が永遠につづくようで心底うんざりし、ようやく下界が近づくにつれ、山旅の終わりの実感が押し寄せてくる。先ず決まって音から、車やバイクのエンジン音や人々のざわめきが立ち昇ってくると、次に葉叢の合間から民家の色とりどり屋根や舗装された道路が思いがけず近くに垣間見え、無事還ってきたという安堵を覚えるとともに、それらを何か錯覚のようにも感じている。

 疲労困憊していても、心身に充実した心地良さを感じていても、その感覚には一抹の寂しさが伴う。

 二十代後半は山に熱中していた。仕事や人間関係はそのために疎かになってしまった。それが急に熱が冷めたというわけでもなかったのに、山岳会の人間関係に嫌気がさし、将来の見通しがきかず、なんとなく足が遠ざかったのだった。長期休暇に計画を立てても、単独では岩登りが無理なわけであるし(少なくとも自分の実力では)、テント泊も億劫になり、しだいに安易で危険のないルートばかり選ぶようになったのは、今から思えば体力の衰えと軌を一にしていたのだろう。


 正月休みに八ヶ岳に単独で登った。急峻な南ではなく、穏やかな北の方である。山小屋での一夜は常連たちの酒盛りで騒々しいことこの上なかったけれど、彼らは小屋までの宴会登山、一夜明け天狗岳へ向かう登山道は人気の南よりもずっと人が少ない、というより自分以外に誰もいない。トレースがないということは、ここ数日は人が入っていないということだ。膝上までの積雪をラッセルして、シラビソの林を登り下りする。山はひっそりとして、自分の呼吸音しか聞こえなかった。時折、針葉樹が枝葉に積もり凍った雪の重みに絶えられずに、身を震わせてそれを払い落す音があちこちで聞こえた。

 たおやかな名もないピークでシラビソの幹に寄りかかって、テルモスの熱いお湯を呑んでいると、心地よい疲労感に満たされる。見ると、今来た白い道を朱色のアウターを着た登山者がゆっくりと登ってくる。黒い目出帽で口元は覆われているが、吐く息が白く煙っていた。

「おはようございます」と、覆いを引き下ろして白い歯を見せると、白い顔の若い女だ。昨夜同じ小屋に泊まっていたとも思えないが、どこから来たのだろう。

「おはようございます」とこちらも挨拶を返す。「ラッセル泥棒!」
「お勤めお疲れ様です!」
 満面の笑顔で軽口を叩いてから、ここまでえっさえっさと雪をかき分け登ってくると、彼女は悪びれることなくザックを下ろし、テルモスを取り出すと、立ったまま小休止に入る。
「ふん」
 ラッセルどころか、ルートファインディングもしないつもりか。入れ替わりにこちらが荷物を背負って、先へと進んでトレースを残してやる。

 誰もいない、踏み跡もない東天狗の山頂に登ると、空は冬山、それも午前中でしか見られないほど恐ろしく青く澄み渡って、もし指が届くなら、飛び上がると届きそうにも見えるのだが、粉々に砕けてしまいそうなほど薄く繊細に張りつめている。意外と近くに南八ヶ岳の雄大な岩稜が白く凍てついて、正午近くの日差しにその荘厳な姿を照らされている。さながら氷の要塞のようで思わず歓声が上がる。

 誰もいない遠くの森で一本の木が倒れるとき、その音は響くのか、そんな問いかけをした哲学者がいたことを思い出した。音の発生という物理現象について思い巡らすことなく、ただ音を聞くという主観的経験について語ったこの哲学者のことを笑えない。

 東天狗から西天狗のピークを経て、雪に完全に隠れたハイマツの群生に苦闘して、雪塗れになってようやく下山の途に就く。眺望の良いところを過ぎると、決まって急ぎがちになる。

 ようやく雪掻きのされた山間のバス通りに出ると、安堵感と一抹の寂しさとともにあのいつもの感覚が訪れる、厳しい冬山ではなくこの下界のいつもの暮らしの方が錯覚であるかのような。しかし、それは束の間のことであり、次には山の記憶が錯覚のようになり、それが幻ではないことを確かめるために又山に登るのかもしれない。

(続く)



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