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【短編】待合室の男

 駅の待合室で暮らしている男がいる。いや、正確には暮らしているとは言えないかもしれないけれど、滞在していることは確かである。

 家具(椅子)付き冷暖房完備で家賃0円、自販機まで三歩だから、悪くはないかもしれない。入場の度にお金はかかるし、終電と始発の間には駅のシャッターが閉まるから、外に出なければならないけれど。

 平凡なサラリーマンの片桐は、通勤の行き帰りに、いつしか待合室の男を外側から観察するようになった。中に入ってみる度胸がないのは、もちろん片桐ひとりではなく、待合室を独り占めである。壁が透明だからプライバシーはないけれど、パーソナル・スペースはバッチリというわけだった。片桐の一人暮らしの、モノで溢れた1Kのマンションよりも余程ゆったりしている。

 男の風体は、どこからどう見てもホームレスで、散髪せず髭も剃らずボウボウで、垢染みた顔はほとんど覆われ、ボロボロのドカジャンで着膨れて、ベンチに腰掛けている。これまたボロボロのボストンバッグに紙袋が二つ、それから何が入っているのかパンパンの無数のレジ袋が足元に。

 平日、片桐が駅を利用するのは5、6分に一本は電車が来るラッシュアワーのみで、ホーム上はかなり混み合う。そんな中、男はまったく一人きりで、どこへ行く目的もなく、当てもなく、悠々とコンビニ弁当を食っていたり、缶チューハイを呑んでいたり、恐ろしくゆっくりと靴下を脱いで丸めて匂いを嗅いでから、大切そうにレジ袋に仕舞ったりしているのだった。

 ホームレスは都心の大きな公園や地下通路にいるもので、この辺りでは珍しかったが、朝も夕も誰もが見て見ぬ振りをするどころか、無関心だった。スマホに没頭しつつ目的地を目指し、それどころではない。ただ片桐だけが妙に男に気を取られる。

 行列に並びながら横目で、ギュウ詰めの中、吊り革に捕まってまっすぐに男を観察する。誰かに似ている、ひょっとしたらあの男は知り合いの零落した姿ではないのか……。

 ある夜、会社の飲み会でいつもより遅くなったとき、酔いに勢いを得て、片桐は待合室の周囲をぐるぐる回った。男はいつのものとも知れぬ新聞紙を広げて、顔が見えないのがもどかしい。コートを脱いで片手にかけネクタイを緩め、意を決して横開きの扉を開けた。何日も、何週間も風呂に入らない汗と垢と尿の入り混じったような饐えた匂いが押し寄せてくる。吐き気を堪えて、横になれないよう手すりのあるベンチにかけた。ちょうど横並びの両端に二人は位置している。

「ああ、先輩、ご無沙汰しています」と男が新聞を下ろさないまま言ったので、全身が総毛立つ。一瞬で酔いは覚めた。

 子どもの頃、あるレコードを逆回転させると悪魔のメッセージが聞こえて来るという噂が流れたことがあったが、そんなプツプツと雑音混じりの淀み軋むような不快な声をしていた。
「誰だよ、あんた? 知り合い?」
「覚えてないすか?」
「覚えてないどころか、赤の他人だろ。馴れ馴れしくするなよ」
「俺ですよ、俺」
「詐欺師みたいなことを言う」
「先輩の嫌がらせで会社を辞めた者ですよ。本当に覚えてないんですか? 俺はあなたのことを片時も忘れたことはありませんよ。言われたこと、やられたこと。お前みたいなポンコツ見たことねえぞとか言いましたよね。ゴミ、クズ、死ね、と。正直凹みましたよ。適応障害になって会社を辞め、部屋に引きこもってましたが、貯金が尽きて家賃も払えず追い出されました……」

 透明な壁の向こうで電車が停まり、乗客を吐き出しては走り去る。大丈夫だ、俺は正気だし、世界は狂ってない。

「何か誤解があったようだな。まあ、話せて良かったよ。それじゃ」立ち上がりながら言った。もし扉が開かなかったらどうしよう、ここから出られなくなったらちょっと嫌だな。

 扉は開いた、しかし、全然知らない男が立ち塞がった。
「ちょっと待って、それって完全なパワハラですよね。精神的な苦痛があって実害があったわけだから、訴えることが十分可能です」
「誰ですか?」
「私はこの人の弁護士です」
「いや、あの人は赤の他人だし。それに証拠はないでしょう」
「証拠がなくても証人がいれば」
「馬鹿々々しい。もし仮に万が一あいつの言っていることが正しいとしても、とっくに時効でしょうよ」

「困るなあ、お客さん。ここは公共のスペースなんだから、占拠されたら他の人の迷惑なんですよ。わかるかなあ。通報しますよ」
 弁護士の後ろから駅員が顔を出した。いつしか待合室の周囲に人だかりができている。

「あんたかね、待合室で暮らしているというのは?」警察官が言った。
「なわけないでしょ。あのホームレスを見てわからないんですか? とにかく自分はもう帰りますから、道を開けて下さい」

「おい、逃げるのか、卑怯者!」
 肩を掴まれていた。

(了)

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