見出し画像

【掌編】未明の蕎麦屋にて

 仕事が夜勤であるから、始発電車を待つ間に飯を食う機会が少なくない。あちこちの現場へ行っても、定番のチェーン店ばかりなので、非常事態宣言時のことを思い返すと深夜・早朝に営業しているだけでありがたいけれど、どうしても飽きてしまう。

 だからというわけでもないが、最近は始発までの時間、一駅か二駅分ぐらいなら歩くことにしている。するとすこぶる体調が良いのである。

 ところが、初めて下車したその町のガード下の立喰い蕎麦屋はまったく目にしたことのないチェーンであったので、迷うことなく早朝ウォーキングを断念し、直行して天ぷら蕎麦を注文したのであった。

 客は、金髪のソフトモヒカンと黒服の二人のみ、いずれも二十歳過ぎくらいの若さ、飲み明かしたようだった。それほど栄えている町とも見えなかったが、遅くまでやっている飲み屋も少なくないらしい。

 始発の時間を気にしながら、急いで蕎麦を啜っていると、彼らの会話が耳に入ってくる。
「さっきも思ったんだけど、おまえ、ぎっちょなんだな。子どもの頃、親に矯正されたりしなかったんだ?」
 さりげなく視線を横へ走らせると、モヒカンの方がたしかに左手で割り箸を使っている。
「うん。生まれてから、ずーっと左利きや。あっ、でも、学校の習字の時間だけ右手で書かされたわ。作品を壁に貼り出すと、一人だけめっちゃヘタなやつがあって、それがオレの」
「ヒャヒャヒャ。書道じゃ、ぎっちょはダメなんか」
「それで思い出したんやけど、学校のな、教室の窓って全部左側にあるやろ、なんでかわかるか?」

 本当だろうか……疲れた中年の私が、懐かしさとともに小・中・高の教室を次から次へと思い出す、モンタージュのように、それこそ過去の時間を瞬く間にくぐり抜けてゆくかのようだ。夜明け前、終夜営業の蕎麦屋で、窓ガラスから燦々と教室に注ぐ日差しを思い浮かべていた。たしかにそうだった、そうか、そういうことだったのか!

「え、なに唐突に? なんだろ、そんなこと考えてみたことなかったけど……」
「ヒントはなあー」
「待って!」思わず私は叫んでいた。「日差し、右利き、影……」

 全て教室の窓は南に面し、廊下の窓は北に面している(後で調べてみると、美術室の窓は北側が多いという)。

 二人の若者はそろってびっくりして、突然会話に加わってきたおっさんを見つめ、それから次の瞬間爆笑していた。

 ありがとう、知らなかったよ。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?