重力について(6)
木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる
そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂廖のなかへ落ちる
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
この惑星は恒星の周りを巡っているのではなく、そこへと向かって際限なく落ちているのだ。そして、大地に繋ぎ止められてひしゃげたような存在である我々も、やはり落下しているのである、無限のなかへと、或いは寂廖のなかへと。
風もないのに枯葉がはらはらと落ちるのがなぜだか不思議なように思えて、いつまでもぼんやりと見上げていた。そんな長閑な時がたまさか挟まることはあるものだ。しかし、ひょっとしたらそれは自身の体験ではないのかもしれないず、公園で惚けたように梢を見上げている年寄りを横目に、慌ただしく通り過ぎただけだったのかもしれない、一体何をしていることやらと呆れて。それから瞬く間に十年が経ち、ふと思い返すと、まるで自身の経験のように想っているのだとしたら、人の記憶というものも実に怪しいことになる。つらつらと書き連ねてきたこれらの思い出の断片も一体誰のものになるのか。聳え立つ塔のてっぺんから、落ちそうになったヒロインが危機一髪で救出される映画を観た記憶は本当だろうか。そしてもし、ひとが落下の最中に一生を振り返るとするならば、今ここに書いていることが、そうではないと言えるのだろうか。
それからまた時が経って、街路樹の黄葉が舞い散る季節に、都心の方であるひとが高層ビルから身を投げたと聞かされたのが葬式の案内と同時で、もう五日も過ぎたことになる。その間何も知らずに過ごしていたのか、と悔やまれた。十日後だろうが、一日後だろうが、時計の針を巻き戻せないことに変わりないのに、そんなはずがないとでもいうように拘って、あの時どこで何をしていたかと記憶を手繰り寄せる。まさか己の振る舞いを改めておれば、不幸は避けられたとでも。本当の問題は、誰も原因に心当たりがないということにあったのにもかかわらず。
施錠された非常階段の扉を乗り越える後ろ姿が防犯カメラに映っており、事件性はないと判断されたという。葬儀の後で聞かされた話である。映像を監視して何か異変があればすぐさま駆けつける警備員がいなければ、何のためにカメラを設置しているのか、女が簡単に乗り越えられるような扉に何の意味があるのか、怒りにうち震えた。映画ではないから、ヒーローが助けに来たりしないし、間一髪で助かったりもしない。
何階から飛んだのか、五階か、十階か、五十階か。それはわからぬ。しかし、葬儀ではきれいな顔をしていたから、後向きに自由落下したのだろう。直感的には、彼女は軽くて薄かったから、空気抵抗を受けてひらひら舞いながら、ふわりと大地に受け止められるように着地したような気がしないではない。なんと愚かなイメージ。その間、地面に衝突するまでの引き伸ばされた時間に何かを想ったにせよ、或いは何も想わなかったにせよ、決して与り知らぬことだ。
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
ここでも詩人は間違っていると断言できる。残念ながら、両手でやさしく支える者など、存在しない。存在したなら、彼女は助かっただろう。いや、それともあの結末が救済だったというのか。だとしたら、辛すぎる。
(了)
【引用及び参考文献】
『リルケ詩集』富士川英郎訳 新潮社
『ホーキング、宇宙を語る』 早川書房
『重力とは何か』大栗博司 幻冬舎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?