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【連作】無為のひと④風前の灯火

  あるとき、いつものように《アルバトロス》を訪れると、とうとう電気が止まって、いや止められて、元々暗い店だったのが、明かりはカウンターに並べられた乏しい蝋燭の光だけとなっていた。とうとう客はひとりもいない、見えないのではなく、本当に空っぽである。まさに風前の灯である炎のゆらめきに、マスターの姿が幽鬼めいて浮かび上がり、いっそ風情が感じられる。毎晩のようにグラスが落ちて砕け、目減りしていった。電気の次にガスが止まると料理もできなくなったが、もっとも注文する客は既になく、店主ももはや調理する気などさらさらなく、今更なんの支障もない。

 トイレに行くと、水が流れたのでホッとする。安堵のため息をもらした後、倉木はふと我に返るように気がついた、別にここに通い続ける義理はないんだと。そのことに気づいた一番最後の客が、彼なのかもしれなかった。めずらしく一見の客がふらりと入ってきても、慌てて逃げ帰ってしまう、ある意味で「インスタ映え」する店だと思うのだが。そんなわけで、とくに会話もなく、毎晩二人してしんねり、むっつりカウンター越しに向かい合って(とはいっても、顔が見えるわけではなかったが)、煙草を吸い、杯を干す動作を繰り返す。やがてマスターは匂いだした。風呂に入っていないのである。蝋燭が尽きても補充されず、すえたホームレスの臭いが闇に浸された店内に漂った。

 しかし、またあるときは電灯が灯っていた、どうやって電気代を捻出したのか、首を傾げざるを得なかったが、訊いてはいけないような気がしないでもない。まだ完全な一文なしではないのかもしれなかった。そんなことより、久しぶりに明かりの下で見るマスターの風貌の変化には驚かされた。頬に肉がついて顔の輪郭は丸くぼやけ、ごわごわだった短髪が白く伸び、油気が切れて柔く丸顔を縁取っている。胡麻塩だった無精髭も今では伸び放題に垂れ下がり、すっかり俗気が抜け落ちて仙人のようなってしまった。しかし、穏やかな眼差しをしているというより、目力を失ったという方が相応しい。昔は生ビールばかり呑んでいたのが、今は一人きりの顔になってバーボンのロックを静かに啜っている。醤油で煮染めたような色のTシャツは、かつて白だったのだろうが、デキモノや瘡蓋をひっ掻いて潰した跡のような染みがあちこち浮き出していた。始終体を掻き毟っているので、オンザロックの氷を直に掴む爪先にびっしりと垢が詰まって真っ黒になっている。それ以降は、ペットボトルの水と乾き物をコンビニで買ってから訪れるようになり、酒は決まってストレートで注文した。

「たまには風呂は入んなよ」と言うと、「んー」と尻上がりに応える。「髪伸びたね、そろそろ切らないと」「んー」今度は尻下がりに応える。「おい、手ぐらい洗ったのかよ」つい言葉が乱暴になることもある。すると咄嗟に睨みつけてくる眼球に光が灯るのだが、それもほんの一瞬に過ぎず、すぐに白目のところに厚い膜が張ったようになって、外界への反応が一切閉ざされてしまう。無感動、無関心、無表情。それは煩悩をきれいに洗い流された悟りのようなものを思わせる。それでも酒は止めない、止められない。乱れることなく、静まってゆく。

 毎日つらい肉体労働に汗を流し、毎晩のようにこの店に通って、いつまでもこんな暮らしが続くはずがないと頭ではわかっているのに、ひょっとしたら続いてゆくのではないかと思われてきたある頃、また電気を止められて暗闇に閉じ込められた、その闇の奥でしばらく「んー、んー」と呟いていたマスターが、不意に意味のある言葉を発した。

「ケネディの嫁って、誰だっけ?」
「ジャッキーのこと? ジャクリーン・ケネディ……それがどうしたの?」
 倉木にとっては、歴史上の人物だ。「いや、別に。ただどうしても思い出せなくて」
 その翌日。「なあ、暗殺されたケネディの奥さんの名前って……」
「ああ、ジャクリーン」

 それからも、昼間の仕事中、土木工事現場で鉄筋の束を担いだり、結束しているとき、携帯電話が鳴りだし出てみると、「おい……ケネディの妻の名前がどうしても出てこないんだが……」
「あのさ、何回言わせるの」
「そんなに訊いたか?」
「それぐらい自分で調べられないのか」
 さすがに声を荒げそうになるが、当然、いかなる手法でも調べられないのだと思い至る。
「いいかい、もう一回だけ答えるけど、これが最後だと思ってメモをとっておいて」
 それから、ピタリと質問は止んだ。しかし、何十年も昔のアメリカ大統領の妻が、マスターに一体何の関係があるというのか、何ゆえにこれほどまでに執着しているのか、わけがわからぬ。

「最近お店の方には行ってないんだけど、マスターは大丈夫なのか?」
 今度は久しぶりに冨田先生から電話があった。
「んー」とマスターの口癖が移った。「大丈夫……じゃない。ちっとも」
「やっぱりな」
「何かあったんですか?」
「いや、何度も何度も電話がかかってくるんだ、それがケネディ大統領の奥さんの名前は何だったかって。毎日のように。どうなってるんだ」

 やっぱりメモをとっていなかったか。そこでメモ用紙に「ジョン・F・ケネディの妻=ジャクリーン・ケネディ・オナシス」とボールペンで走り書きし、考えた末にオナシスは混乱の元だと二本線で消して、店の油染みて埃の付着した板壁に画鋲で留めておくことにした。だからといって、何かが根本的に解決したというわけにはならないけれど。芸能人のサインを飾る店も少なくないから、晩年に来日したジャクリーンがたまたままここに立ち寄り、求められるままにサインを残していった風に見えなくもない。

「様子がおかしい。リハビリに行ってないのとちがうか?」と、冨田先生が訊いてきた。そこで倉木が思い出したのは、マスターの快気祝いに訪れた二人のうら若き女性のことで、たしか「看護婦じゃないのに」などと笑っていたのは、理学療法士だか、作業療法士か何かではなかったのか。「厳しいのなんの」とマスターがぼやいていたのが、なんだか遠い昔のことに思えてきたが、あれからまだ一年も経たぬ。彼女たちの連絡先を訊いておけば良かった、と今さら悔やまれる。

「ああ、リハビリは終わっていなかったか、どうりで。病院嫌いの面倒くさがり屋だからなあ」
「そもそも金がないだろう」
「たぶん、いや絶対」
「俺な、二十万貸してる」
 それから、かつての常連の名前をざっと並べて、Aさんも二十万、Bさんは十万、Cさんは賃貸保証人になっている、と。いやはや、呆れた。
「いつ?」
「もう何年も前、契約更新のときに泣きつかれて」
「それはもう諦めてください」
「言われなくてもわかってるよ。そんな保護者みたいな口の利き方しなさんな」

 保護者ではなく、もちろん保証人でもなく、所詮は客と店主の関係に過ぎず、更にいえば飲み友達ということになるかもしれないが、実際のところは赤の他人だ。その赤の他人が、どうしたものかと首をひねる。どうしようもない、どうすることもできない。しかし、どうすればいいのだろうと頭を悩ましてしまうことは、如何ともしがたい。しかし、当然来るべき日は来た。

 曇りガラスの嵌まったアーチ型の扉の鍵穴がガムテープ(鍵交換済とマジックで書かれている)で塞がれ、張り紙一枚「通告 この貸店舗は契約終了に付き閉鎖しました(日付と管理会社の連絡先)」が風にぴらぴら吹かれていた。その前でしばらくぼんやり立ち尽くした倉木の背後を、なんだか用ありげな人々が忙しなく行き交う。早送りみたいにしゃかしゃかと、絶えることなく行き来しているのだった。振り返ると、いつの間にか歳末セールに賑わう商店街だった。

(了)

『その男、デクノボーにつき』改め『無為のひと』④

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