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トマト嫌い(1)

 朝採りの瑞々しいトマトをさっと水でゆすいで塩をふり、思い切りかぶりつく……なんとおぞましい行為であることか。想像するだけで、酸っぱいものが込み上げてくる。

 子どもなら、誰だって好き嫌いがあっても不思議ではない。そう、私はトマト嫌いな子どもであった。実をいうと、今でも苦手だ。

 あの色、形、香り、歯ごたえ、そして味わい。好きになる要素が何一つとしてない。青みがかって腐敗した内臓思わせるぐじゅぐじゅの中心部を取り囲むツブツブした種らしきものの集合。たちまちにして全身が総毛立つ。

 どこの親でも大抵は、子どもの野菜嫌いを強制的に矯正しようとするけれど、これは逆効果であって、かえって子の嫌悪を深めるばかりではないのか。どれほどの子どもが食べ物にまつわるトラウマ体験を持ち、PTSDを抱えていることか。

 かくいう私も、親に無理矢理トマトを食べさせられたことがあり、口の中いっぱいに詰め込んだトマトを(その他もろもろの胃の内容物共々)食卓にもどしたものだから、実のところ我が家では、親の方にPTSDが残ったのである。それ以来、二度と強制されることはなかったし、私の皿にトマトが載ることもなかった。

 そうして、父はトマトを食べる度に、いったん口の前でストップして、決まって私の方をチラリと見て顔をしかめてから、頬張るのがルーチンとなった。気づいていないと思っていたなら、大間違いだよ。

 しかし、一体トマトが嫌いだということが、何か重要な人格的欠点を意味するとでもいうのだろうか。「いや、ぼくはトマトが苦手で」と皿に盛られたトマトを残す私を前にして、なぜ人は嫌なものでも見るような目(きっと私もそんな風にトマトを見ているのだろう)をするのだろうか。いい年をした大人が好き嫌いをして、みっともないことだとでも言いたげに。

 食にまつわる好き嫌い、いや偏食そのものについて考えてみたい。思い出すこと、忘れられないことがあるのだ。

 食べ物の好悪に文化の差異というものは、もちろんある。その昔、フィリピンへ旅した時に、友だちがバロットという孵化寸前のアヒルの茹で卵を屋台で注文した。これが、殻の中に孵化寸前の内臓のような雛が入っているグロテスクな一品で、見ているだけで具合が悪くなってくる。私としては、とてもチャレンジする気になれなかったが、現地では普通に食されている伝統料理なのである。また、常に腐敗臭の漂う市場で、檻に閉じ込められ、けたたましく吠えていた赤犬は、もちろんペットにするために売られていたわけではない。耐えられないが、文句を言う筋合いもない。

 逆に外国人が梅干しや納豆に嫌悪を示し、豆腐に味がしないと文句を言ったとしても、さして驚く日本人はいないだろう。これこそ文化と伝統の差異というものであり、尊重するのが一応マナーとされているのだ。

 ところが、同一文化内では、たとえば茨城で、納豆なんて臭くてネバネバしてとても食えたものではないなどと口にしようものなら、たちまち敵対視、少なくとも白眼視されることになる。

 考えてもみて欲しい。アステカ文明で、「いや、人間なんて不味くて、栄養がないし、グロいよ。そもそも同じ人間を食うなんて、残酷で野蛮で非文化的な行為じゃないか」なんて言い出したら、そいつはたちまち食われてしまうことであろう。

 けだし食文化の同調圧力というべきものが根強くあるのである。私の父のように「出されたものは、きれいに食べてご馳走様でしたと言うのが美徳」だと思い込んでいる者がいて、私の母のように「好き嫌いが多いのは甘やかされた証拠。人としてどこか欠けたところがある」と主張する者がいる。そして口を開けば、健康が、とか、栄養がとか尤もらしいことを子に言いながら、父はヘビースモーカーであり、母はキッチンドランカーなのである!

 かくいう私も、大人になった今ではスモーカー兼ドランカーなのであるが、それはさておく。

(続く)


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