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【エッセイ】捜神記私抄 その十二

降ってきた神
 訳者によると「風神・雨神・水神に関する説話」を集めた『捜神記』巻四から、『くだってきた神』の話を。

 江蘇省出身の戴文誅という人は、わけあって古女房とふたり、河南省の陽城山の山中に隠棲していた。使用人を置かないような貧しい暮らしである。

 あるとき、座敷で夫婦差し向かいで朝食をとっていると、女房が「はあーっ」と大きくため息をついた。
 まあ、ため息をつきたい理由はわからなくもない。夫として、不甲斐なくもある。それでも、朝っぱらから面と向かってとなると、むかっ腹が立たないわけがない。
「いいかね、ちょっとそこに座りなさい」
「もう座ってるわよ」
 なんて、やりとりがあったとは原典には書かれていません。

 と、夫婦間の雲行きが怪しくなってきたところで、一天俄かにかき曇り、ビカビカと雷光が落ちてきた。そして、天井、いや、そのもっと上の天上より厳かな声が鳴り響いたのである。
「わしゃ天帝の使いじゃ。地上に降って貴公のところに厄介になろうと思うが、宜しいかな」

 なにしろ急なことなので、二人は肝を潰して顔を見合わせた。
 夫の方が意を決して天に向かって問いかける。
「あのー、すいません、あなたは神様ですか?」
「なんだって?」
「あ・な・た・はー、神様ですかー⁉」
「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ!」
 なんて、やりとりがあったとは、当然原典には書かれておりません。

 女房は右手を口に添えて小声で夫にささやいた。
「どう思う? 本当に神様かな?」
「いや、俺にわかるわけないじゃないか。しかし、よりによってなんだって俺たちのところに」

「これ! 何をヒソヒソ声で話しておる」

「なんかめんどくさいことになりそーよねー」と妻。
「ホントの神様とも限らんのだし。よし、ここは遠慮のていで断っておくか」

「えーと、神様。私どもはですねー、なにぶん貧乏でございまして、ご降下いただく資格もないかと存じますが」
「なぬ! 貴公はわしを信用せんのだな」

「ちょっと、ちょっと」と女房が袖を引いて、耳元でささやく。「あたし、良いこと思いついちゃった。ここは神様を受け入れるか、うさん臭いと拒むかの二択でしょ。神様である方に賭けてみましょうよ。万一そうじゃなくても、どうせ私たちに失うモノなんてないんだから」

 これは……ひょっとして有名なパスカルの賭け……なのか。この説話はパスカルが生まれる遥か以前のものであるし、そもそも神の概念が東西で違っているけれど、どうやら『パンセ』のテーマを先取りしているようなのである。

 神は存在するのか、しないのか、理性によってその答えを知り得ないのだとすると、生は神の実在を前提とするか、非在を前提とするかの二択の賭けとなる。さながら表か裏かのコイントスのようなものだ。では、神が存在することを前提に行い正しく生きる場合(A)と、どうせ神様なんていやしねーよと堕落し切った暮らしを送る場合(B)と、一体どちらが賭けとして有利なのであろうか(これを戴文誅の場合に置き直すなら、自称神様を受け入れるか、偽物だと斥けるのかの二択の賭けとなる)。 

 神が存在する場合、Bの立場は地獄に落ちることになるから賭けに敗れたことになる。では、存在しない場合はどうなるのか? Aの立場でも何も失うものはないとパスカルは考える。仮に神が存在しなくても、行い正しく真面目に生きておれば、充実した人生を送れるではないか、というわけである。なるほど、たしかに堕落した人生を送ったら、万が一地獄に落とされなくても、白い目で見られるし、ろくな死に方をしないかもしれない。

 でもですね、パスカル先生、白い目で見られても、ろくでもない死に方をしても、品行方正なんてまっぴらごめんよという生き方もありますよね。そりゃ地獄には落ちたくはない。だけど、万が一神様が存在しなかったら、ちょっと損した気分になってしまう、どころか恐ろしい悔恨にさいなまれるのではないでしょうか……。あー、もっと悪徳に耽っとくんだった!

 それはともかく、戴夫妻は「ははーっ」と跪き、とりあえず神様に賭けてみることにしたのである。そうして、神が降ってからは、家を掃き清め、祭壇を設けてささやかではあったけれど朝な夕なにお食事とお酒を供え、真心をこめて仕えるのがルーティンとなった。

 しかしながら、メデタシメデタシ、これにて一件落着、とはならない。特にご利益もないまま日々はだらだらと過ぎて、やがてそんなルーティンにも飽きがくる。

「なあ、お前、ちょっとそこに座りない」朝飯を食いながら、戴文誅は声を潜める。
「なによ、もう座ってるわよ」
「いやさ、神様のことなんだけどさ、どうもおかしくないか?」
「何がおかしいっていうの」
「お前がそうしようと言うから、毎日毎日尽くしているのに、何にも起こらんぜ……」そう、夫は神の非在へと傾きかけていたのである。「相変わらずの山奥での貧乏暮らし。何も失うモノがないというけれど、飯も酒も只ではないのだから」
「そうよねー。もしかしてこれは神様になりすました化け物かなんかのイタズラなんじゃないのかしら」
「いや、実は俺もそうじゃないかと疑ってたんだ」

 などと、夫婦が祭壇から離れてコソコソ密談しながら、化け物の存在に賭けようとしているところに、又しても一天俄かにかき曇り、ビカビカと稲光が。

「こらーっ! お前ら何を話しとるか。誰が化け物じゃ。せっかく利益を授けてやろうと思っておったのに、まさか化け物呼ばわりされるとは思わなんだぞ!」
 耳が良いんだか、悪いんだか、よくわからない神様であった。

 戴が土下座して謝っていると、屋上から数十人が呼ばうような声がする。夫婦して家を飛び出して空を見上げると、巨大な五色の鳥が一羽、翼をはためかせ東北の方角へと飛び去った。それが白い鳩、数十羽を従えている。みるみる雲の中へと消え入ると、二度と姿を見せなかった。

 いつまで見送っていた二人は、やがて「はあーっ」と大きなため息をついた。

 どうやら、彼らはパスカルの賭けに敗れたことを悟った様子であった。

(続く)

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