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文学人生相談所③中島敦『わが西遊記』

僕って必要? 僕の存在意義って?
本日の相談者 沙悟浄さん(中国流沙河出身、西域へ旅行中)
 こんにちは、僕、沙悟浄と言います。中国は流沙河りゅうさがの河底で、まあ、およそ一万三千匹ばかりの同胞、つまり妖怪たちに混じって暮らしてた。でも、なんつーか、周りと打ち解けなくて、ひでー孤独っつーか、殻に閉じこもりがちっつーの? なんだろ、仲間と距離を感じてたんだ、うん。

 ぶっちゃけ馬鹿にされてたと思う。独言どくげん悟浄なんて影で呼ばれてね。それはいっつも、僕がブツブツ独り言を呟いているからだよ、「ああ、どうして僕ってこうなんだろう」って。そして、深い深いため息をつくんだ。

 我とは、世界の意味とは、幸福とは、真理とは? 答えが欲しくて、化け物界の賢者や教祖様、哲学者たちを訪ねて回ったりもしたよ。熱烈な信仰を説く狂信者、ニヒリスト、セックス教団の教祖、博愛主義者、ソフィスト、エピキュリアン、ヒッピー、コミュニスト、棺桶に片足を突っ込んだような年寄り、醜い乞食、儚い美少年、妖艶なおばさん……まあ、色んな考え方があったもんだ。そうして、皆わかったふりして上から目線で「真理」を語るけど、本当ところは何もわかっちゃいないんだと思ったよ。答えを得るどころか、ますます混乱してしまったんだ。そんな時、夢に観世音菩薩摩訶薩かんぜおんぼさつまかさつ様が現れて、大乗三蔵だいじょうさんぞう真経しんぎょうを持ち帰るために天竺国へ旅する玄奘げんじょう法師とその弟子二人の一行に加わるように勧められた。

 こうして、思索から行為へ、傍観から冒険へ旅立ったわけなんだけど、この旅の仲間、孫悟空というエテ吉、これがとんでもないスーパーパワーの持ち主でね、ハッキリ言って、僕とかもう一人の仲間、猪八戒ちょはっかいというブタ野郎とか、妖怪バトルに全然必要ないよ。僕らは脇役も脇役、そのへんの雑魚キャラみたいな存在感なんだ。

 牛魔王と悟空の凄まじい一騎打ちの時だって、もはや僕らは味方というより観客だったもんな。いや、助太刀に行こうかと思わないでもなかったけれど、両者のあまりに見事な戦いぶりに見惚れるというか、真剣勝負に加勢しては二人のファイターに失礼なような気がしたぐらいだもんな。

 一方、八戒のブタ野郎はというと、これはエテ吉とは別の意味で悩みを知らない楽天家、大喰らいで無類の女好き、惰眠を貪る怠け者。奴がかつてのグルメや女色について夢見るように語って飽きないとき、ちょっと感動しちゃうんだよね。なんでかって言うと、僕が自己や世界についてウジウジ悩んで、賢者たちの門を叩いてまわっていたとき、コイツはさんざん放蕩していたわけでしょ。人生をただ楽しむのにも、ひょっとしたらある種の才能が必要なのかもねって。

「あんなにセックスと美食に耽って、それでもまだ自分が生きてるなんて不思議だ」ある時、ブタがそんなことをぬかしやがった。アレコレ悩んで食べる物も喉を通らず、女遊びどころか恋愛も未経験で、それでもまだ自分が生きてるなんて、そっちの方がよっぽど不思議じゃないか、僕はそんなことを思ったよ。

 最後に玄奘法師様について言うと、この方はそれはもう役立たずで、腕力も体力もなく、ピンチにあってもまるで無抵抗、圧倒的なまでにか弱い存在なんだ。でもそんな師匠に、僕たち似ても似つかぬ弟子三人が揃って同じように惹かれているのはどういうわけなんだろうか。この尊いような弱さとは一体何だろう、ほら、またしても僕は考え始めているよ。

 結局、行動と冒険の旅に出ても、僕ってやっぱり傍観者に過ぎず、考え事ばかりしてるんだよね。そして相変わらず答えを求めてるんだ……。

かんやんの回答 答えはない。ナンバー・ワンよりオンリー・ワン、世界でたった一つだけの花を咲かせれば。
 はじめまして、沙悟浄さん。ご相談ありがとうございます。悩んでる自分に酔ってるようなところがなくて、とても生真面目でなんか好感持てますね。

 いや、虫に変身して家族に疎まれる男の陰陰滅々たる告白とか、酒とクスリと女で身を持ち崩して、そんな自分に酔ってる自慢話とか、正直ウンザリしてもう人生相談止めようかなと思ってたところでした。

 さて、沙悟浄さん、実はあなたのような悩みは全然珍しくないのですよ。自らを顧みて、勉強もできない、スポーツもできない、顔も良くない、ユーモアのセンスもないとなったら、誰だってアイデンティティの危機に陥るでしょう(あ、かんやんは容姿端麗頭脳明晰なので誤解なさらぬように)。あるいは又、勉強だけなら誰にも負けなかったのに、全国模試で上には上がいることを知ったり。サッカー部のエースだったのに、怪我で未来を絶たれてしまったり。学年一の人気者が、転校生に人気を奪われたり。生まれてからずっと「その他大勢」で満足という人も少ないんではないかな。諦めや人生経験、そして大抵はただなんとなく「その他大勢」に落ち着いてゆくんじゃないのですか。

 もちろん、あなたの悩みはもっと哲学的で高尚なものですけど、日々の暮らしのうちに誰もがふと感じるような居心地の悪さ、当たり前とされることに抱くささやかな疑問、人と比べたときに感じる劣等感や生きてあることの惨めさ、それらを際限なく突き詰めて考えてゆくと、沙悟浄さん、あなたのように悩むことにになるんじゃないのですか。

 でもおそらく、誰もそこまでとことん生真面目に悩んだりはしなかった。あなたのお師匠の法師はすでにして悟りを開いているようなお方だし、お仲間のエテ吉は行為のうちに忘我の境地に至るだろうし、ブタ野郎は酒池肉林のうちにそうなるでしょう。つまり、沙悟浄さん、あなただけがとことん考え続け、悩み続けることになる。それがあなたのキャラなんでしょう。とても味わい深いキャラですが、答えはきっとありません。

 そんな沙悟浄さんに哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉を送ります。

生の問題が解決したことに気づくのは、その問題が消えたことによってである。
(これが理由で次のようなことがあるのではないのか。長いあいだ、あれこれ疑ってから生の意味が明らかになった人たちがいるのだが、明らかになっても、生の意味がどこにあったのかは、言うことができなかった)
『論理哲学論考』

(了)

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