見出し画像

【連作】無為のひと①飲酒の起源

 あの頃、私たちは毎晩のように呑んだくれていた、酒に溺れていたと言ってもいい。実のところ、今でもそうなのだが。そうは言っても、アルコール依存症にはなっていなかったと思う。今では、完全にそうなってしまったのだが。

 酒を呑みながら、ふと私たちはいつから飲酒しているのだろうと思ったことがある。一身上の履歴ではなくて、仲間内のことでもなく、人類全体に関する壮大なる問いである。人類の飲酒の歴史というものを、一体どこまで遡ることができるのだろうか。私たち人類の祖先が樹上生活にとどまる仲間たちと別れ、木から下りて二本足で立ち上がったのは、気候変動による森林の縮小と草原の拡大が要因とされている。しかし、ある学者によると、腐って木から落ちた果実の発酵エタノールを好んで食べた種が、ヒト属の先祖になったということだ。つまり、私たちには元から酔っ払いの遺伝子が組み込まれているということになるのだが、ありそうにもない珍説だと断言できるだろうか。

 また別の学者によると、体毛を失った私たちの先祖は毛繕いのスキンシップができなくなり、酒を酌み交わして語らうようになった。言語コミュニケーションはグルーミングの代替だったという仮説である。この場合エタノールの役割は添え物、よくて潤滑油に過ぎなくなる。しかし、私たちにはひょっとすると、言語を方が逆に添え物だったのではないのかという気がしているのだ。その証拠に何を喋り、どんな話を聞いたのか、一夜明けると誰も覚えていないのではないか。いったい何がおかしくて、昨夜あれほど腹を抱えたというのか。

 こうして酒好きの遺伝子を酔っ払いのホモ属から受け継いだ私たちは、夜な夜な街へ繰り出し酔い痴れる。表通り、ガード下、路地裏、地下、雑居ビル……居酒屋、小料理屋、バー、ビストロ、バル、さらにはキャバクラ、スナックにもぐり酒場……似たような連中は似たような何軒かに集まった。バー《アルバトロス》はそのうちの一軒であり、商店街というより飲食街の外れの、中国人がオーナーだとかいう雑居ビルの一階にあった。今はもうない。間口は狭いが奥行きが深く、洞穴のように暗かった。ワット数の低い裸電球とカウンターの蝋燭の炎のゆらめき。曇りガラスの嵌まった、円いのぞき窓のある厚いアーチ型の扉を押して紫煙の立ち込める屋内に入ると、かえって夜の濃密さが増すように思われた。

 私たちはそこの常連であり、そこの常連たちは又私たちでもあった。リタイアした者もいれば、家賃収入で働かずにぶらぶらしている者もいたし、日雇い労働のその日暮らしから、生活保護受給者までいた。十代の頃から地元のライブハウスに出入りし、六十の声が聞こえてくるというのに、未だに出入りしている者がいれば、若い頃は劇団員だったけれど、とうに夢破れて掃除夫をしている者もいる。つまり、私たちの共通項といえば、揃いも揃ってろくでもない酔っ払いであるということだけだった。

 いつからかこの店に入り浸るようになった、いわば新入りの倉木は、痩せて背が高く、肉体労働者のごつごつした掌を持った青年で、暗がりに溶け込む日に焼けた肌をして、ただ白目ばかりが輝いていた。どこからかここへと流れ着いて、またどこかへと流れてゆくのだろう。マスターを含めて私たちのほとんどがそうであったように、彼もまた地方出身者だと聞いた覚えがあるが、さてどこの出身だったか、幾つだったか、具体的な仕事は何だったのか、とうに忘れてしまった(聞かされても、おそらくその翌日には聞いたということすら覚えていない)。あれから歳月は流れたし、私たちも実のところそれほど倉木のことに興味があったわけでもなく、彼も又とうとうと自分語りするようなタイプでもなかった。始めのうちは苦虫を噛み潰したような顔をしてしんねりむっつり呑んでいたのが、杯を重ねるごとにしだいに口数が増えて陽気になってくる。いける口だった。店仕舞いを済ませたマスターと二人で、どこかへ呑みにいくこともしばしばあったようだ。

 それでも、倉木が私たちに話したなかで印象に残っていることがある。彼の父親はアルコール依存症で、おそらくそれが原因で両親は離婚したのではないかというのだ。

 陰惨な記憶はとくに残っていないと言った。記憶がないから陰惨な事実がなかったとはいえないけれど、したたかに酔って上機嫌で帰宅した父の姿を覚えている。今のぼくと同い年くらいじゃなかったか、呆れるおふくろを前にはしゃいで、起き出してきた、いや無理矢理起こされたぼくに土産を渡すんだ、どうせ焼き鳥かなんかだよ。暗い家ではなかったんだ。暗かったのは、むしろ親父が出てった後の方さ。

 生きていれば今頃どこで、何をしていることやら、と彼は呟いたが、どんな場合であっても、それこそ第一に問われるべき本質的な問いであると私たちには思われたものである。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?