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何もしない

 尾形亀之助という詩人のことは、たしか小田嶋隆さんのコラムで知って、「つまずく石でもあれば、私はそこでころびたい」だとか、「目の前で雨が降っていようが、ずぶ濡れになろうが、雨には関係ない」という風な言葉に惹かれて、青空文庫で読んでみたら、その徹底した無気力に一種不思議な感銘を受けたものだ。むしろ積極的といえるまでに消極性を突き詰めてゆく先にあるのは、もはや言語による表現ではなく、何も書かない、何もしないということであって、亀之助はとうとう飯も食わず栄養失調で逝ってしまった。
 あるいはそれは詩人を巡る神話か伝説の類いなのかもしれず、鬱病などの精神疾患であったとか、適応障害が鬱病を併発したとか、重度の自閉スペクトラム症だったとか、あるいは何らかの身体の疾患により行動が妨げられた、たとえば機能獲得型の遺伝子疾患でドーパミンが生成されていないとか、そのいずれもが当てはまるという風にも考えられないこともないけれど、今となっては全て根拠なき推測でしない。当時存在しなかったような概念で当時のことは語れないとは言えないはずで、仮に親族か友人が亀之助を病院に連れていたったら、どうにかなっただろうか、と詮のないことを想わないでもない。
 そういえば、文学作品を精神疾患の概念を用いて分析するということが、かつてはまかり通っていて、文学研究のみならず、精神分析学のテキストまでが小説を俎上に載せたりしているのが、若い私を苛立たせたものだった。たとえば、父親との葛藤というものを近親相姦的文脈でしか読み解けないマザーコンプレックスという概念の貧困さだとか、偏執や分裂の傾向をタイプ化して人格に当てはめる陳腐さなどに、ほとんど義憤に駆られるように反発したものだったのに、いま亀之助について語りながら、似たような誤りを犯そうとしているのだろうか。
 詩を読み、それについて語ることは、レッテルを貼ったり診断を下したりすることとは同義ではないにもかかわらず、亀之助を読みながら、社会不適応者とレッテルを貼り、生活無能力者と診断を下している自分がたしかにいる。しかし、それだけではない。過剰な演技や耳目を集めようという声高な表現ではなく、しだいに気配を消してゆき、やがて語る主体はいなくなり、ただ情景だけが残っている、かすかに残されているような言葉に、そっと耳を澄ませて聞き入っている。詩人は何を語っているのか……実は何も語っていない、少なくともほとんど何も語っていない。たとえば、空が晴れている、又は雨が降っている、昼近くまで寝ている、障子に陽が射す、鶏が鳴いている、終日火鉢に炭をつぎ足す……およそこのようなことども。縁側に出たときには、何をしようと思ったのか忘れていて、そこに布団を敷いて横になるのだが、もしかしたら、最初から昼寝するつもりだったのかもしれないし、考えてみれば縁側に出るのに特に理由もいらないわけである。
 縁側もなければ障子もない住まいに火鉢のない暮らしで、もちろん鶏も飼っていないし、近くにそういう家もなく、無為とは程遠いような生活を送っていながら、そんな情景が遠い記憶か夢で見たかのように脳裏に浮かぶ。生きているうちには、飯を食い、厠へ通う、もちろんぐっすりと眠り、子をもうけさえするけれど、それでも何もしない、こちらからは働きかけてゆかない、ということはあり得るだろうか。およそ一切に受身になったとき、あらゆる期待は失われて、楽しみもさらさらなく、繋がりが少しずつ確実に断たれてゆき、時間はただやり過ごされるものになる。気怠い衰弱感にうっすらと恍惚が兆す。その感覚を自身が経験として知っているとは言えない。それは単なる空想なのかもしれないし、予感なのかもしれない。
 できれば知りたくなかった、遠ざけておきたい、と思っている。

(了)

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