【短篇】深夜のタクシー
都心の繁華なところで会社の飲み会があり、二次会、三次会とあっという間に時は流れて、その帰り。近場の者は終電に間に合うが、他は方向別にタクシーに分乗する。
高層ビル群を抜けて、街道を郊外へと向かうタクシーから客が一人減り、二人減り、ようやく一人切りになった二宮は、大きくため息をついた。前を走るタクシーのテールランプが、酔眼にぼんやり滲んでいる。心底疲れていた。仕事に脳が疲れ、人付き合いに心が疲れ、暴飲暴食に胃腸が疲れ、カラオケに喉が疲れ……今はただ一刻も早く帰宅して、ぐっすりと眠りたい。明日は休みだから、目覚ましをかけることなく思いっきり寝坊することができる、それが格別な褒美のように思えるほど彼は疲れていた。
仕事も人間関係もそこそこうまく行っている。少なくとも、今のところどこも拗れてはいない、まずまずといったところか。そう、それが肝要なんだ。大丈夫、大丈夫、お前はうまくやってるよ、これまでも、そしてこれからも。
ほっとすると、眠気が滴る。二宮が腕を組んで目を閉じうつらとしかけた、まさにその寝入り鼻に運転手が話しかけてきた。
「お客さん、なんか音楽でもかけますか?」
「んー、別にいいよ」気のない返事だった。
「でも、こんな深夜に何か音がないと寂しくないですか? リクエストありませんか」
「いやあ、ないね」
「じゃあ、好きなジャンルでも良いんです」
しつこいな、ただ運転に集中してくれれば、それで良いんだから。音楽ぐらい聴きたけりゃ、自分で聴くよ。
「昭和歌謡からロックの名曲、アニソンまで、何でも揃えていますよ」
「ちょっと静かにしてくれないか」
それほどキツい口調で言ったつもりはなかったのだが、不意に相手が黙り込んだものだから、なんとなく険があったような印象が残ってしまった、ような気がする。この気まずい沈黙には、それこそ何かBGMが欲しくなってくる。
運転手とバックミラーで目が合った。同年輩か、ギョロリとした目玉に睨まれて、二宮の眠気はすっかり霧散してしまった。
はて、ここはどこだ? あとどれくらいだ? そっとしてもらえるなら、あとは寝たフリでもしておくか。もう一度目をキツく閉じ腕を組んで、シートへ深く身を預けた。一刻も早く帰ってぐっすり眠り、この瑣末ではあるけれど、胸がざわざわするような出来事を忘れ去りたい。
「あの、お客さん、お客さん、おーい、お客さーん!」
「……一体、なんだね」たちまち狸寝入りは見破られて、堪らず応えていた。
「あの、失礼ですけど、どこかでお会いしたことはないですか?」
バックミラー越しに嫌な目つきで一方的にジロジロ観察されていたかと思うとゾッとして、「いや、ないね」と即答する。相手の顔もよく見ていないにもかかわらず。
「高校は◯◯ではなかったですか?」
「は? どこかで会ったって、そういう意味! いや、私は地元の人間じゃないよ」
「あたしもね、別に地元の人間じゃありませんよ。てか、お客さん、地元どちらですか」
なんだか答えるのが憚れて、
「しかし、◯◯というのは、見当もつかないなあ」と誤魔化す。もちろん、見当もつかないというのは、嘘偽りない本当の話だ。「うん、そうだ、80年代のUKロックが聴きたいな」
すると、運転手はさりげなく路肩に車を停めて、一息ついてからゆっくり振り返った。一瞬身構えたが、当然まったく見覚えのない平凡な中年男のツラである。だけど、どこにでもいそうなおっさんとも言えるから、どこかで会っていたとしても覚えていないのは、まあ不思議ではないと言える。
「生徒会長、やってたでしょ」
「やってないよ」
◯◯高校といい、生徒会長といい、完璧な人間違いだ、他人の空似というやつか。
「俺のこと覚えてない? 田畑だよ、ほら、柔道部にいた。二年のとき同じクラスで、たしかお前は剣道部だったろ、懐かしいなー。こんなところで再会するとは、凄い偶然じゃないか、ええ? あれから何年経ったよ」
「ちょっと音楽をかけて欲しいんだけど、聞いてない、あ、そ、そりゃけっこう」
「いや、それにしても、出世したもんだなあ。稼いでんだろ。いや、こういう稼業をやってると一目でわかるんだ。俺は、まあ、ご覧の通りしがないタクシードライバーだよ。同級生でこれだけ差がつくとはなー」
二宮も、もう面倒くさくなってきて、とにかく早く帰宅したい一心で、むにゃむにゃ適当に相槌を打っていた。
「さあ、それはともかく、ほら、もう遅いし、そろそろ……」
「しかし、偉くなったもんだなー。うん、大したもんだ、人に向かって『静かにしろ』とはねえ」
「はは……そんなこと言ったかな」
「言った、言った、お客さんにですよ、気を使って話しかけてるドライバーに向かって『黙れ』とはね。偉そうに。お前、昔からそういうところあったぞ」
「いや、ちがう、ちがう、そういうつもりじゃなかったんだよ」
「何がちがうんだよ!」
また沈黙が訪れ、車は静かに発進して、たまにタクシー(終電を逃した客を送り届けたその帰りなのだろう)とすれ違うぐらいの閑散とした夜更けの街道を軽快に走った。
「誰がしがないタクシードライバーだよ、人を見下しやがって」
「そんな、自分で……」
「まさか、本当に俺のことを覚えていないとか? お前にとって、俺は虫ケラ以下の存在なのか」
「なんでそんなことに。いや、わかった、俺が悪かった、すまん、この通りだ。今日のところは許してくれないか」
「……よし、じゃあ名刺を置いていけ」
考えてみれば、名刺を渡しておけば、こんな誤解はさっさと解けたかもしれなかったのだ。ただこの男に会社や名前を知られるのが、なんだか嫌な気がする。アクリル板のパーテーションの隙間から、仕方なく二宮が名刺を渡すと、田畑は右手で運転しながら、左手の親指と人差し指でつまんだ紙切れをしげしげと眺めて、やがて呟くようにこう言った。
「おい、二宮って誰だい、お前婿養子にでも入ったんかい?」
「うん、実はそうなんだ……」
何もかもが気怠く、ひたすら面倒くさく、くたくたに疲れていたのに、今ではもう当分安らかな眠りに就くことはできそうになかった。
(了)
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