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修行、遍歴、それから

 結城の行きつけのバーのマスター宮さんが体を壊して(もちろん呑み過ぎで)入院し、退院してからしばらく酒を抜いてすっかり健康的になると、周囲の止めるのも聞かずにまた呑み始めた。
 まあ、バーのマスターが禁酒しているというのもおかしな話であるのだが。
 宮さんはたしか今年還暦を迎えたはずだ。その十歳年少の結城も健康診断でガンマの数値が良くなく、メタボであるというので再検査の通知が届いても、それを無視して呑みに行ったりしているのだから、偉そうなことは言えない。
 常連客も高齢化が進んで、一人、二人と消えてゆく。やはり癌が多かった。浴びるように呑んで、矢継ぎ早に煙草を吸い続ける生活をずっと送ってきたのだから、長命とか大往生とはほど遠いような年齢で逝くのである。
 この先どうなるのか、とバツ一で子のいない宮さんも不安がないわけではなかろう。その不安を消すために呑むようなところもあったし、独り者の結城も、そんなマスターに自身の未来を重ねて見るようなところがあった。そんな矢先の入院だったのだ。
 店では二十二時を回るまで呑まないというのが入院前には鉄則だったはずなのに、結城が宵の口に訪れると、すでに良い気分になってるマスターを見出すようになった。
 そうして亡くなった常連の話など二人でしていると、妙にしんみりしてくるのである。
 その年の暮れ、宮さんがこんな思い出話を始めた。
「二十代の頃、会社を辞めて、新宿の焼き鳥屋でバイトしてたんだ。そこで修行を積んで、この町で独立して焼き鳥屋を始めた。もう三十年にもなるなあ」
「え、ここ元焼き鳥屋だったの」
 カウンターだけの長細い店で、たしかに厨房に網を置けば立派な焼きもの屋になるだろう。バーにしては、やたらとでかい冷蔵庫があるなとは思っていたのだ。そうか、BAR MIYAは、その昔焼き鳥宮だったのか。
「もうずいぶんになる。まだあるのかなあ、あの店」
 そこで結城が携帯電話で検索して確かめてみると、まだある。店名も住所も変わらず老舗として残っていて、ネット上の評価も上々である。
「よし、今度うちの定休日に行ってみないか」
「喜んでお供しますよ!」
 それは宮さんにとっての、青春再訪であったのだろう。

✴︎

 そこで、六十と五十の酒焼けしたおっさん二人が、年の瀬の夕暮れ時に待ち合わせ、ビルの谷間の雑踏に紛れて目的の店を探すことになる。
「いやあ、凄い人だな」と宮さんは呆れていた。「それにまるで変わっている」どこか不安気でもあった。
 都心まで出てくるのも、ずいぶん久しぶりなんだろう。こうして外に出して、人混みに置いてみると、小さくか弱い年寄りに見えてくる。宮さんの記憶がどうにもアテにならず、結城がGPSで繁華街の一角にお目当ての店を探り当てた。ちょうど角地ある二階建ての古いビルで、外壁の煉瓦を蔦が這い絡まっている。
「おお! 何も変わっていない」小さくか弱い年寄りは、思わず立ち尽くし、しばしの感慨に耽る。その後ろ姿を見つめる結城の目元に優しい皺が寄った。
 五分刈り頭にねじり鉢巻の男が、一心不乱の様子で、炭火で串ものを炙っているのが窓から見える。
「いや、俺らバイトはなかなか焼かせてもらえなくてよ」
 店内は広々として、まだ開いたばかりだからか、年配の団体客が長テーブル席を埋めているばかりで、カウンター席はまばらだった。早速お通しが来て、生ビールと盛り合わせを二人前注文する。すると、「宮ちゃん! 宮ちゃんじゃないか!」と素っ頓狂な叫び声が上がって、客たちは何事かと静まり返った。
 耳の上に申し訳程度に髪の残った、禿頭が駆け寄って来ると、「おお、じゅんちゃん!」と宮さんも叫んですっくと立ち上がり、結城は二人が堅く抱きしめ合うのではないかと思った。さすがにそこまではせず、「うわあ、久しぶり! 何年振りよ! いや、何十年ぶりよ!」と、お互いに肩を叩き合いながら、顔をシワシワにさせている。
「たまにはうちに来てよ」
「そっちこそ、うちへ来いや!」
 などとなかなか興奮が収まらない。
 黒い作務衣に黒い前掛けの、その男は店長だろうか、それとも経営者だろうか、「懐かしいなあ」と、わざわざビールを運んで来てくれた。しかし見ていると、他のテーブルにもいそいそと料理を運んでいる。
「あの人は?」結城は訊いた。
「じゅんちゃんのこと? 同期のアルバイトなんだよ。しかも、年齢も同じでよ」
「ん? 宮さんがここでバイトを始めたのが……」
「二十代半ばだったかな」
「とすると、じゅんさんは社員に採用されたとか」
「いやいや、社員は厨房に入るから」
「ということは、その、三十五年前からここでアルバイトをしているということになりますね」
「そうさな」
 いやたまげた、実に色々な人生があり、様々な生き様があるものだなあ。
「とすると、厨房で焼いてる鉢巻の人は?」じゅんちゃんよりも二十年は若いだろう。
「知らない人だねえ」
 アルバイトはなかなか焼かせてもらえない、と先程宮さんは言ったけれど、じゅんちゃんは実に三十五年間ホールスタッフを務めて、一度も焼かせてもらえなかったことになるのか。それが適材適所ということなのか。
 独立して一国一城の主になるがリスクを背負うのと、ずーっとアルバイトを続けるのと、どちらがより相応しい生き方か決める基準はないわけだ。逆を言えば、自分で決めるしかない。いや、秤にかけるまでもなく、ただ日々は過ぎてゆく、十年でも、二十年でも。いつしか結城は、宮さんの胡麻塩頭と、じゅんさんのてかてかした禿頭を見比べていた。

✴︎

 年が明けてすぐ、宮さんはまた救急車で運ばれることとなり、結局そのまま店を閉めて、九十近い母が一人暮らしている田舎へ帰った。それきり結城とも連絡が途切れてしまい、最後に二人で呑んだのが新宿になってしまったのだった……。

(了)

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