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【エッセイ】博物館で考えたこと

 久しぶりに博物館に足を運んだ。コロナ禍もあって数年ぶりになる。

 驚いたのは、展示品が全て撮影可だったこと。大混雑の中、誰もが携帯電話を手にして、シャッター音が絶えることがない。黒山の人だかりからニョキニョキと裸の腕が何本も伸びている。一眼レフで撮影して回る強者までいて、鑑賞しているこちらが邪魔ではないかと気になるほど。

 もはや撮影会だった。

 きっと帰宅してから、他人に邪魔されることなく心ゆくまで堪能するのだろうね、現物をではなく画像の方を。それともNOTEにでもアップするのか。

 三島由紀夫のエッセイだったかな、博物館でミイラにじっと見入っている人(の顔)を観察していて、つくづくインテリの顔は醜いと感じたとあったのは。

 今時、博物館・美術館に押しかけるのはインテリ(死語)ではなく、有象無象の大衆なんだろう。もちろん、自分もその一人だ。でも、写真を撮ってる人たちを鑑賞していると、自分がその一人であることを忘れて、批判など始めてしまいそうで怖い。

 せっかくなんで自分も写真を撮りましたよ。

「ちょっと何見てんのよ」
「わたしのことは、そっとしておいて」
「もう動いて良い?」

 何年か前、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』を観にいったとき、朝の通勤電車並みの混み具合で、係員に誘導されるまま、通路を「立ち止まらずに」歩いて絵の前を通り過ぎた。すごい屈辱感。歩きながら、角度によって首をひねって顔を絵に向ける。すると、パンダ見物の行列に並んだ遠い日の記憶が蘇ってきた。もう一度、長蛇の列に着くのは御免だったな。

 博物館を出て、久しぶりにアメ横で一杯なんて思ったけど、お目当ての店は全て満席。どこもかしこも人だらけ。

オマケ。数世紀後、古代阿佐ヶ谷展で展示されるかも

(了)

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