重力について(1)
子どもの頃、地方の五階建て団地の最上階で暮らしていた。駅ビルでさえ三階建ての牧歌的とも言える時代(田舎だから土地はいくらでもあった)、団地は子どもらの目に聳えるように映ったのではなかったか。市の中心部にある県庁などの高層建築(そして五重塔)を除けば、辺りで最も高かったのかもしれない。
ベランダからは盆地の隅々まで見晴らしがきいて、小川が見え隠れしながら蛇行しつつ視界を横切ってゆく。ミニチュアのような疎らな家々の向こうに田んぼが広がり、青く霞む山々の連なりが、すなわち世界の涯である。夜になると、峠を走る車のヘッドライトの連なりを遠く望むことができた。
平日の放課後、息急き切って階段を駆け上り、ランドセルを玄関に放り投げると、すぐに又駆け下りて遊びに行く。思い返してみると、意外なことにそれなりに活発な子どもだったようだ。
土曜日の授業は午前中までで、昼食は家でとることになる。じゃらじゃらする玉暖簾の向こうの台所で母がインスタントラーメンを茹でたり、焼きそばをつくってくれたりした。学校での給食の後はすぐにグラウンドで走り回っているのに、不思議なことに、家で飯を食うと満腹したせいか、全身に隈なく気怠さが浸透してゆくようである。テレビで面白い番組をやっているわけでもなく、眠たいような土曜日の午後には、子ども心にも奇妙な倦怠感を感じていたのかもしれない。
ところどころ色褪せ、染みの残った草色の絨毯に寝転がって、ベランダの柵越しに空を見上げていると、青を背景として白い雲の塊がゆっくりと形を変えながら動いているのがわかった。雲が動くのではなく止まって、地球の方が自転しているような体感もする。考えてみれば、こんな風に天を観察する機会もなかなかないものだ。空は必ずしも青くなく、雲は必ずしも白くないと気づかされる。
朝顔の成長を日記に記録したり、いくら眺めても一向に動物に見えてこない星座を観察するよりも、大空を舞台に繰り広げられる荘厳な雲のドラマを観劇している方が余程楽しいと言えないだろうか。しかし、それは人を奮い立たせるようなものではなく、あくまでも気怠さのうちに進行してゆくのである。
部屋の中にいては、風を感じることはないが、上空では気流が渦巻いているに相違ない。光に透かされ複雑な陰影を織り込みながら、雲が積み重なっては崩れてゆく。かと思うと、又集まって壮大な城砦を築き上げる。風に舞うふわふわの綿毛から、飽和して重苦しくわだかまる塊まで、雲粒は変幻自在である。灰色が一面に垂れ込め、やがてしめやかに雨が降り出す。稲妻がジグザグに駆け降りてくると、雷鳴が響くまで数を数えて距離を測るのだった。
なんだか、座っているよりも横になっている方が、一階にいるより五階いる方が、重力が体にかかっているような気がする。重力は距離の二乗に反比例するというから、もちろん、錯覚に過ぎない。地表にいようが、屋上にいようが、位置エネルギーすら変わらない。それでも、子どもは地球の中心に向かってより強く引かれている自分を感じている。
私たちは普段重力を意識して暮らしているわけではないし、子どもは特にそうだと思われる。地球に帰還した宇宙飛行士が、両脇から支えられている映像を見たことがある。長期間無重力状態に留まったために、筋力が急速に衰えたのだろう。かくも私たちの体は重力に適応している。
しかし、不意に一切が恣意に感じられ、今ここが緩むとき、地球はゆっくりと回転し、振り落とされないようにこの惑星にへばりついてる体が中心に向かって引かれて、重力が確実に増してゆく、二度と立ち上がれない程に。それは眠りに落ちる間際の体感なのかもしれない。
(続く)
引用・参考文献は最後に掲載します。
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