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【エッセイ】捜神記私抄 その十一

古代中国の占い師たち・郭璞と華佗の場合
 悲惨な最期を遂げた占い師は、一人には止まらない。第61〜64話でやはり他の占い師と似たような活躍(相談→アドバイス→解決)を見せる郭璞かくはく。もう読者諸賢もいい加減にウンザリされておられることだろうし、説話の引用は止めておきます。

 ボスの未来を占わなかったが故に命を失ったように見える淳于智じゅんうちとは反対に、郭璞かくはくは、ボスに未来を占うようにように命じられたために苦境に陥ったのである。

王敦おうとん(十六国時代の将軍)は帝位簒奪を企てて再び東晋に対して反乱を起こそうとしたが、直前に重病に倒れた。このため、書記が占いに長じていたので、早速吉凶を占わせた。書記が「この度は成功いたしません」と答え、続いて王敦が自らの寿命を尋ねると「事を起こされたら、間もなく禍に遭われますが、動かなければ長命を保たれます」と答えた。王敦は激怒して、「お前の寿命はどうだ?」と質問して「本日で尽きます」と答えたので斬り殺した。
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 この書記が郭璞だとする説があるのである。史書によると、様々な予言や妖術を用いて難を逃れたという郭璞、享年49歳、西暦324年のことであった。

「(自分の命が)本日で尽きます」というのは、もはや占いではなく、単に親分の顔色を読んだのであろう。しゅんとしたに違いない。やっぱり仕える人物を間違えたのである。

 もし「お前の寿命はどうだ?」とボスに訊かれた時に、「いや、自分は長命を保ちますよ」などと答えたなら、許してもらえただろうか? いいや、やっぱり惨殺されただろうね。それは本人もわかりすぎる程わかっていて、それで「本日で尽きます」と答えたわけだ。少なくとも、占い師としての面目は保ったのである。

 ちなみに第二次王敦の乱は失敗し、王敦も重病に倒れたのだから、占いは当たっていたことになる。でも、病を押して反乱軍を指揮するのではなく、先ずは治療に専念すべきとアドバイスすれば良かったのではないだろうか。

 最後に、第69〜70話の華佗かだという医者について。彼はかの曹操の典医であって、初めて麻酔を用いて腹部切開手術を行ったとも言われている(『捜神記』ではそんなことは一言も触れられておらず、やはり怪しげな治療法を試みているが)。

 五禽(虎・鹿・熊・猿・鳥)戯という体操による健康法を考案したということからも、単なる占い師ではないと思われる。しかし実のところ、当時は医者の社会的地位は低かった。しょせんは呪いや占いの類いで、ほとんど治ることがなかったからであろう。華佗による早すぎた麻酔開腹手術だって成功したとは限らないし、ひょっとしたら、桑の木の枝にムチを掛けておくとか(第58話)、猿を叩く(第60話)などのアドバイスと同列に見られていたのかもしれないのである。

(華佗は)帰郷の念が募って、医書を取りに行くと言って故郷にもどり、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に来ようとはしなかった。曹操は調べた結果、妻の病気が偽りだと判明したので、これに怒って華佗を投獄し(中略)拷問の末に殺してしまった(208年)。
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 いくら嘘をついたからと言って、自分が評価している人材を拷問の上に処刑するとはね。これは、医学にとって多大なる損失であったかもしれないではないか。

(続く)

このところWikipediaの引用が多いので、少額ですが寄付しておきました……。

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