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【エッセイ】捜神記私抄 その十三

『捜神記』巻五、98話『赤い筆』
 自分が占いやオカルトというものを好きになれないということを、繰り返して書いてきたけれど(このしつこさは、やっぱりどこかで惹かれているからこそなんだろうか)、だからと言って、フィクションから超自然的要素が一掃されるべきだなどと主張するつもりはない。

 最近たまたま目に入った文章で、ロシアの戯曲家、短編作家であるチェーホフについて述べたものがある。「短編小説の世界から超自然やオカルト、非日常性を排し、日常そのものを描いた」というような要旨であって、ハッとさせられた。超自然の驚異ではなく、日常のドラマを描いた、と。

 自分は占いやオカルトにどっぷりハマっている人が苦手なだけであって、フィクションとしての超自然=幻想小説までも否定するつもりはない。その一方で、超自然の驚異や不思議なんてものは、現実に存在してこそのものであって、そもそもホラ話である小説にあってはあまり意味がないようにも思われる。幻想小説特有の退屈さ、陳腐さというものが確かにあって、似たようなプロットと道具立てばかりで少しも新鮮味がないということではないのか。『捜神記』に集められた説話の退屈さも、当然そこに通じている。

 ところがである、似たようなプロットや道具立てが、人の心を捉えて離さないということも一面の真実なのであって、陳腐な恐怖演出、殺人鬼、人情ドラマ、ハラハラドキドキのチェイスや斬り合い、撃ち合い、モンスターなどは、どれほどテクノロジーが進歩しても、一向にストーリーから駆逐される様子もない。疑いなく冥界だの幽霊だのも又、そういったエレメントの一つである。

 さて、散騎省の属官であって、天子のおそばに侍し政務を奏上するなど事務と執っていた王祐という役人があった。病を得て職を辞し帰郷する。静謐な死などない、死して後にのみ静寂は訪れる、意識を失えばどれほど楽であろうかというぐらいの苦しみようである。ろくにものを考えることもできないから、覚悟など決めようもなく、ただ悪夢に魘されるだけであった。

 束の間の小康が訪れ、ふと寝台の傍を見やると、男が腰掛けている。行灯の仄かな明かりに浮かぶのは、どこかで見たような顔だったが、それがどこだったかまでは思い出せない。

「何某郡・何某里の何某という方がお見えになられました」という取り次ぎを声を夢ううつに聞いたような気もする。

 男は枕元に来るとこう言った。
「あなた様とわたくしは役人同士、その上同郷の縁もございます。されば包み隠さずに申し上げますと、今年は国家に大事があり、三将軍を派遣して徴兵しております。わたくしは趙公明閣下の参謀を務めておりますゆえ帰郷して、あなた様のご立派なお屋敷を拝見してこうして参上した次第であります」

 この男はもはやこの世の者ではない。王祐は自身でも驚くほど澄明な心持ちで死期を悟った。しかしながら、彼にはたった一つだけ心残りがあり、黙ってうべなうことができない。

 幽鬼が続ける。
「人は必ず死ぬものでして、これは誰しもが逃れられぬことです。わたくしは三千の兵を率いることになっており、あなた様には過去帳の係をお願いいたしたい。この地位はお断りなさらぬ方が良いでしょう、亡くなった後には、生前の貴賤は問われないものでありますがゆえに」
「しかし、母が高齢でありまして、兄弟もいないものですから、わたくしが死ねば世話をする者が誰もありません」
 なんとかそう答えると、横たわったままの王祐の頬を涙の玉が伝った。

「あなた様が役人でありながら、賄賂も受け取らず、不正に蓄財することもなく、赤心を以って天子様にお仕えなさったことは、わたくしが一番存じております。まさしく国士ではありませぬか。御母堂のことは承知しておりませんでした。かような事情を知ったからには、わたくしが何とかいたしましょう……」

 翌る日の夜も又、幽鬼は王祐の枕元に現れ、黙って指し示す方を見れば、石畳の中庭に大勢の供の者が控えている。いずれも漆黒の甲冑を身に着け、赤い油を顔に塗って、ざっと百人はいた。松明が燃え上がり、太鼓を叩いて祈祷が始まると、やがて彼らは無言で舞う、ただ百の鎧が厳しい音を立てて軋むのだった。

 王祐が酒を用意させようとするのを幽鬼は固辞して、ただ水のみを所望した。

「熱は人体の火のようなものですから」と言って掛蒲団を捲って、一杯の水を王祐に注ぐ。
「赤い筆を十本、敷物の下に置いておきます。大切な方に与えて髪にでも挿しておけば、万事息災となるでしょう」

 ……小鳥の囀りに目覚めると、一切が夢であったかと思われたが、蒲団をはぐと、昨夜かけられた水が寝具を濡らせることもなく、かといって乾くでもなく、蓮の葉の上の水滴さながら浸透せずに胸と腹の上に散らばっている。払うと転がり落ちたが、崩れることなく涙の玉のような形を保ったままであった。がばと起き上がり、何ヶ月かぶりに自身の足で立ってみる。熱は下がり、体は浮遊するかのように軽く、こちらの方こそ夢かと思われた。

 幽鬼は三千の兵を率いると言ったものだが、たしかにこの後、辺り一帯でおよそ三千名ばかりが疫病や戦乱で次々と亡くなった。しかし、王祐が赤い筆を与えた者は全員、無事息災だったのである。

このことが起こる前、怪しげな予言の書が流布した。それには、「天帝は趙公明、鍾士季など三人の将軍を遣わし、それぞれ幽鬼どもを督励して、下界の人の命を失わせる」とあったが、その場所はわからなかった。王祐は病気が治った後でこの書物を見たが、かの幽鬼が言った趙公明という名前はこれに符号していた。

(続く)

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