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【エッセイ】捜神記私抄 その十五

凶兆について
 目の前を黒猫が横切る、ハシゴの下をくぐる、夜中に爪を切る、鼻緒が切れる、頭を北側にして寝る……そんなこんなは縁起が悪いと昔から伝えられている。私のように頭脳明晰で理性的、且ついかなる迷信とも無縁な、科学的思考力の持ち主であっても、通勤時に目の前をサッと黒猫が横切ってゆくと、なんだかため息がもれてしまうから不思議なものだ。

 小学校で、人の人たる所以ゆえんとは何かと教えられたことがある。曰く、直立二足歩行、火の使用、道具の使用。
「ハイ、先生! 人間は動物とちがって服を着ます」
「お、かんやん君、相変わらず君は頭脳明晰だね。では、裸族はどうだい?」
「でも、裸族だって腰蓑ぐらいしているでしょう。立派な衣服ではないですか!」

 ふむ、直立二足歩行、火と道具の使用ときて、衣服の着用、なるほどなるほど、他には何かあるかな。

 はい、人間には迷信があります。迷信とは合理的な根拠がなくても、何かを信じることだと定義したならば、信仰も占いも迷信だと言えるでしょう。これは因果を見い出し、原因を究明して、過去の出来事を説明し、さらに未来を知ろうとする知性の代償だと思います。慣習やジンクスなどから特定の行為や現象に縁起の悪さを感じて、それを避けようとするのだから、動物とちがって、人は思い込みを生きていると言えるのかもしれません。

木・火・土・金・水の五要素の根本原則をわきまえ、貌・言・視・聴・思の五機能に通暁つうぎょうしていれば、万物が勢いを増したり衰えたり、昇ったり降りたり、いかにさまざまな変化を見せようとも、それが吉兆であるか凶兆であるかは、ひとつひとつ分類して説明することができよう。

『捜神記』巻六102

 このような思考のあり方は、洋の東西を問わない。たとえば、インフルエンザの語源は、星の運行の「影響」(influenza)にある。星辰せいしんと疫病に因果をこじつけるような発想は、亀の甲羅や鹿の肩甲骨のひび割れで占いをするぼくや、ノコギリソウの茎(後には竹)を用いる占いめどきと本質的には変わらないと思う。ちなみに占いに使われるノコギリソウは、「目処めどがつく」の「メド」から、「メドキ(蓍)」と呼ばれているという。


商の紂王のとき、大きな亀に毛が生えて、兎に角が生えた。これはやがて戦乱が起こるという前兆である。

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 この世に存在しないもののたとえである亀毛兎角きもうとかくという成句はここから生まれたのだろうか。おそらく逆であって、四字熟語が先にあって、そこからこのような言い伝えが生まれたのではないか。

 甲羅に毛の生えた亀なら絵画で見たことがあるけれど、調べてみると、あれは蓑亀みのがめといって、毛ではなく緑藻類だと。又、ピンと立ったウサギの耳は、たしかにツノであるかのように見立てることができる。とにかく(兎に角)、亀の毛(緑藻)、兎の角(耳)、いずれも存在しないながら、あるように見えなくもないものだから、こじつけることが可能なのである。

 それにしても、イソップ寓話と同じくカメとウサギがセットになっていることが興味深い。

周の宣王33年(前794年)、幽王が生まれたが、この年、馬が狐に変わるといういう異変があった。

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 幽王というのは、傾国の美女として有名な褒姒ほうじに溺れて、反乱によって処刑された西周最後の王である。

 馬が狐に変わるというのは、馬泥棒がイタズラ心で馬小屋に狐を置いていっただけではないのか、と思わないでもない。ウサギにツノが生えようが、ウマがキツネに変わろうが、そんなことは凶兆でも何でもなく、国家滅亡とは全然関係ないよ、と言いたい。しかし、ここで馬が変わるのが亀でも兎でもなく、よりによって狐であることに注目したい。

 狐といえば、アレゴリーでは狡猾さを意味する。同じ狡猾さでもタヌキ親爺が太ったおっさんなら、女狐なら一枚上手の優美な若い女性である。ずっと後世の、しかも本邦の玉藻前たまものまえが思い浮かばないだろうか。鳥羽上皇の寵姫であったが、その正体は九尾の狐であって、陰陽師に退治されたという昔話である。伝説によると、この玉藻前の前身が褒姒であり、さらに褒姒の前身が妲妃だっきであるというのだ。言うまでもなく、酒池肉林で有名な紂王の妃であって、『封神演義』のヴィランである。傾国の美女や稀代の悪女の正体が九尾狐狸精だというのも、実にわかりやすい想像力の働きである。

 したがって、幽王の誕生の年に起こる異変は、後の世の人々にとって狐に因んだものになったのは当然であったと言えないだろうか。

 え? こじつけてるのはお前の方だろうって? だから言ったでしょう、人は思い込みを生きるものだ、と。

(続く)

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