父を越えたい、という話

 こんばんは甘太郎です、先程のクソnoteは忘れてください。
今回は父を越えたいという話をします。

 とその前に、前提としてキリスト教批判の話をさせてください。

 キリスト教のよいところは、「全ての人間が平等になること」です。
罪深い人も障害者も、信仰さえあれば天国に行くことができるというのがキリスト教の教えです。
 悪いところは長所をそのまま裏返したもので、「あらゆる人間の長所が評価されない」ということです。
信仰以外の全てのものが無価値になってしまうのです。平等に扱うということは、優れた人も劣った人も凡夫と同じように扱われるということです。

 ところでこういった思想って、誰に有利だと思いますか?
そうですね、障害者ですね。
 (現代の基準では)能力に劣る人々は、キリスト教を信じた方が有利に生きられる。そのはずですよね。
ここまでが前提です。

 では本題。「父を越えたい」と思ったことはありませんか?
男性は特にそう思ったことのある人が多いんじゃないでしょうか。僕はレズビアンだからか負けん気が強いからか知りませんが、昔からそう思っておりました。

 しかし現実というのは残酷で、僕の障害はおそらく父より重く、父のように勤勉に働けないことがわかりました。悲しいですね。
 それにも関わらず、「父を越えたい」という思いは捨てられません。ここまで話を聞いた人なら、とっととキリスト教に改宗して、「父が自分より優れている」という事実を無価値にしてしまえばいいじゃないか、とお思いかと思います。

 それは確かに楽な道なのです、天国を信じて現世のものすべてに興味を失ってしまえば、この苦しみからは解放されるでしょう。

 しかしそれをするには、あまりに多くのものを僕は父から受け取ってしまいました。たくさん歴史の話をしてくれたり、いじめに遭った時に毅然と対応してくれたり、父に感謝していることがたくさんあるのです。

 そういった感謝や尊敬が、何故かそのまま対抗心へと繋がるのです。この対抗心を捨てることは、父への尊敬を捨てることに等しい。だから僕は永遠に苦しまねばならないのです。

 何が言いたいかというとキリスト教の原点はあらゆる感謝、尊敬、憧れすらも無価値にしてしまう、非常に危うい価値観だと言うことです。

 僕はキリスト教のアンチなので定期的にキリスト教の悪口は言うと思います、今回はその一つでした。

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