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文章を書くことについて考えてみた

読まれなくても書きたいという気持ちと、書いたからには読まれたいという気持ちが、ぼくの頭の中で手押し相撲をしていることがある。

だれかに読まれていることを意識して書くときと、だれにも読まれていないという前提で書くときで、脳内から腕を通り指先からiPhoneへと流れて出てくる言葉や文章は大きく違う気がする。

ぼくは誰にも読まれていない程で書きたいという衝動に駆られ、4月から2ヶ月ほど、なぞのアプリで日記を書き始めた。そして、三日坊主のぼくにとっては奇跡といえるくらいほぼ毎日日記を書くことができており、毎日ちょっとずつ気持ちよく書くことができている。昨日もそんな感じで書いていた。素晴らしことだ。

しかし、そのことで2つ気になることが生まれた。

1つ目は、noteといった読者の多いブログサイトでの投稿が劇的に減ったことだ。もともと趣味で1年間くらい不定期で書いていたのだが、最近は自分のなかでnote に投稿することのハードルが上がってしまい、noteに投稿するために書くという行為を手元から離しがちになっている。それ自体が悪いことなのではないのだが、だれかに読まれるという前提で書く機会が減り、推して敲くという書くうえで大事な部分をすっ飛ばすようになっていた。それが無くても書いていて気持ちが良いのならば、そんなこと気にしなくてもいいのではないかとも思うのだが、ふと気になったのだ。そして、今も気にしている。

2つ目は、「やっぱり誰かに読まれたい」という気持ちがじぶんの心の中でかくれんぼしているということ。鬼に見つけられないように隠れていたんだけど、あんまり長いこと隠れていると遊んでいる友達から置いてけぼりにされたのではないか、という気持ちになる。それと同じような気持ちが何となくあるのかもしれない。何となくでしかないが。自由に書きたいとはいえ、じぶんの頭で考えたことを発信し誰かに読まれることで「世界のどこかに触れていたい」という気持ちがどこかしらあるのだろう。鬼から見つけられないように隠れるというゲームをしながらも、陽が落ちるまで鬼に見つけられずに置いてけぼりにされると、仲間外れにされた気持ちになるのだろう。

今日は、ぼくのなかでハードルの上がっていたnoteの投稿のために、敢えて何の構想も材料も無い状態で書き始めてみた。4月から誰にも見られないところに文章を置いていたのと同じような感じだ。

こんな感じでnoteに投稿するのはなんとなく罪悪感すら感じる。なんでなんだろう。いつでもどこでもだれでも書いたものを投げることができるのに。街の祭りで100円を払わずに輪投げを投げている気分だ。変な感じだ。

まあでも冷静になって考えてみれば、ぼくが冒頭で書いた手押し相撲はそもそも勝敗をつけるものではない気がする。というか、そうだ。相手に手を引っ込められて空振りすることを恐れながらも自分の手を力強く押し出したり、相手の手が伸びてきた瞬間に自分の手を引っ込めて相手を罠にハメようとしたりするけれども、結局はどちらも倒れなかったり両者がもつれるという結末が何だかんだ2人の遊びを盛り上げるのかもしれない。なんだかんだでしかないが。

結論、書くことは余生を楽しむことであり白黒のない遊びなのである。メシが食えて安全な寝床があってインターネットがあって、余ったエネルギーで粘土遊びしているだけなのである。こういった謎の結論で締めようとするのも、素晴らしい遊びなのかもしれない。


里芋です。